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目蓋を開くと、柔らかな早朝の慈光が、カーテンの膨らみを優しく照らしていた。 眠る前にオイルプレートに垂らしておいた、イランイランの精油の香りがまだ仄かに漂っている。 ブレンドしたオレンジとの加減も良かったのか、おかげでとても幸福な夢を見た後のような気分が、目覚めからずっと続いていた。 わたしは指を組んで、そのまま頭まで上げ、ベッドの上で思いっきり伸びをした。 キャミソールとタップパンツのまま起きだし、洗面し、髪を梳かす。 ようやく肩口まで伸びた、わたしの黒髪。 鏡を見ながら、少し頭を揺すってみる。 流れ具合や、色艶はとても申し分なく、わたしは満足して微笑んだ。
お気に入りのピンクのマキシドレスに着替え、庭の見える居間へ移る。 デッキへ出て、新鮮な朝の空気を吸い込む。 大好きなグリーンアイスが、涼やかに咲いている。 白から薄緑へのグラデーション。絶妙の色目が出た花弁がそこかしこに。 他にも丹精して育てたミニチュアローズ達が、元気に枝葉を伸ばしていた。 秋には大輪系の品種も咲き誇り、本当にここは美の競演になる。
キッチンで、アイスティーの用意をする。 ガラスのジャグに氷を詰め込み、ポットの中のダージリンを移し入れようとしたその時。 テーブルに遮られた足下の視界に「ハ」の字に動く細いものが見えた。 「ぎゃっ!」 盛大にテーブルの上に紅茶を撒き散らしながら、わたしは飛び退った。 「ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ!」 ゴキブリじゃないか! そいつは予測不可能な角度で急に走り出すと、また唐突に折れ曲がるように向きを変え、わたしのスリッパの間を走り抜けた。 「ふげっ!」 乱れたシャンジュマン・ドゥ・ピエを踊りながら、わたしは総毛立った。わたしは虫が駄目だ。駄目だ駄目だ駄目なのだ。 あの動きが、あの無茶な体のつくりが、あの何を考えているのかさっぱり分からない存在そのものが。 咄嗟に手近にあった料理雑誌を丸めたが、一瞬見失い、壁際を走るそいつを見つけて思わず投げつけた。 雑誌は空しくページを潰しただけに終わった。 ゴキブリはぐんと加速して、壁下の床との間にある幅木に沿って走り、くいと曲がってその幅木と床との境目に滑り込んだ。 気がつかなかった。 あんなところに隙間があるなんて。 「ど、ど、ど、どうしよう?」 ゴキブリは一匹見かけたら、実はその三十倍は巣くっていると何かで聞いたことがある。 そんなのは耐えられなかった。 ――確か納戸に殺虫スプレーがあったはずだ。 ようし、ノズルを突っ込んで殲滅するのだ。 わたしが勇み込んで足を踏み出したそのときだった。 「あのう。もしもし」 と、背後から声がした。 「?」 振り向いたわたしは信じられないものを見た。 さっき逃げ込んだと思しきゴキブリ。それが後肢二本で床に直立し、その他の四本の脚を申し訳なさそうにモジモジさせていた。 そのあまりにマンガじみた光景に、逆にじっとりと厭な汗が額に浮かぶのが分かった。 「あのう。無断でお宅に侵入してしまい、とても忸怩たる思いと申しますか、心から反省しております。できればすぐにお暇したいのですが、実はあまりの居心地の良さについ産卵してしまいまして」 さ、ん、ら、ん? 何という気色の悪い単語だろう。 「この子たちの兄弟が――」 ゴキブリの足下に、小ぶりの幼げなやつがすっと寄ってきて、じゃれついた。 「皆、移動ができるまでに成長しましたら、一族郎党引き連れまして、必ずこの家から出てまいります。それまでの間、誠に申し訳ないのですが、間借りをお願いできないでしょうか?」 ……嘘はついていないように思えた。 だいたい、そうでなければわざわざ人間の前に出て口上を述べる意味がない。 それに、悪い話ではないのかも知れない。 殺虫剤を撒いたりしても、害虫駆除には自ずと限界がある。 完全に行うのは難しいはずだ。だが、ある程度の時間が経てば全員で撤退すると、このゴキブリは言っているのだ。 ゴキブリの足下で無邪気な動作をする、幼い子供の様子を見つめながら、わたしの脳髄は穏健な結論を出そうとしていた。 ――そのとき。 子ゴキブリが羽を広げた。 次の瞬間、親ゴキブリもろとも子ゴキブリは、わたしの繰り出したスリッパの一撃に粉砕されていた。 ――いけないのだ。ゴキブリは飛んではいけない。飛ぼうとしたゴキブリも、飛ぶ可能性のあるゴキブリも、全て存在してはいけない。それはわたしにとって万事に優先されるルールであることを、わたしは心の底から自覚できた。 反射神経の限界を超えてしまった。 肩で息をしながらわたしは納戸を開け、その中を漁った。 何故か十本も殺虫スプレーがあった。 わたしは、それらを黙々と床の隙間に噴射した。 床下と壁の向こうは殺虫剤だらけになったことだろう。 とりあえず、床に放置してあるあのスリッパの処理のことは頭から切り離して、わたしは庭に出て深呼吸し、汗を拭いた。
人心地付いたとき、何かが聞こえた。 どこか遠くでサイレンが鳴っているようだった。 それは不気味なくらいの、くぐもった余韻を残してふいに止まった。 と、家の垣根が蕩けるようにして消えた。 「え?」 次に、ミニチュアローズの株がまるで蒸発するかのように、細切れになって宙に舞い、消えた。 「ど、どうなってるの? 何なのこれ?」 突然の異変にわたしは狼狽えた。 デッキの縁まで、庭の地面がまるで液体であるかのように波を打っている。 〈……あのさ〉 頭上から声がした……ように思えた。 「誰? 誰なの?」 〈腑に落ちないだろうから説明してあげるよ。……本当はいけないんだろうけどね〉 わたしの頭上には、竜巻が起こる前のような異常な雲の渦があり、それは明らかにわたしを中心にして回っていた。 〈今、人類は昆虫から進化したと思しい強力な種族と出くわしていてね。ある決断を迫られていたわけなんだ。つまり、対立か共存かの選択だね。それで、悩み抜いた人類はその最終決断をスーパーコンピュータの大規模数値シミュレーションに委ねたってわけなんだ〉 「意味が分からないわ!」 〈コンピュータには、人類の持つありとあらゆる知的材料が投入された。高等数学や物理学、民俗学、哲学、その他の人文科学系の資産はおろか、金融工学からスポーツ医学までとにかく何でもだ。その結果、電脳内に疑似人格が発生した。まあこれは、コンピュータが判断を単純化するために行った自律行動なんだけど。――そして、それは見事に決断を下してくれたってわけなんだ〉 「決断って……」 〈君が下してくれた決断だ。おかげで、これから人類は長い長い戦乱の日々を過ごすことになるのかも知れない。だが、それは正しい判断なんだろうと僕も思うよ〉 強風が吹きすさび、視界の全ての事物の形が怪しくなってきた。背後の家が吸い取られるように空に舞った。 〈君の主観から見た電脳世界がどうなっているのかは分からないけど、君の感情はモニタできていたよ。お疲れ様。これで、シミュレーションは終了だ……〉 わたしは叫んだ。 「ちょ、ちょっと待って! うっそー、信じられなーい! 聞いてない……」
(暗転)
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受信: 22:04, Monday, Jul 27, 2009
■講評
前半の描写は動きがあって、なかなか期待の持てる文章だったのですが、途中からなんだかオチへと締め急いだような展開になっているのが残念に思えました。 もう少し、前半のドタバタ感をキープしつつ、ここまで急展開しなくとも、いっそ笑いに走る方向で終えても良かったんじゃないかなぁと思います。
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名前: PM ¦ 21:10, Monday, Jul 27, 2009 ×
あらま。 …一言で言うとこんな感じの感想です。もうちょっと何か起きても良かったんじゃないかなー。内容がオーソドックスなだけに。でも、 「人類は長い長い戦乱の日々を過ごすことになるのかも知れない。」 という下りはなかなかワクワクさせるものがあります。派生作品への期待に関して+1。 怖さ-ー1 文章-+1 構成-0 |
名前: あおいさかな ¦ 21:24, Tuesday, Jul 28, 2009 ×
なるほどって感じですね。 お釈迦様が出てきて糸を切りはなして行く訳ですね。
ただ、最後に都合よくお釈迦様が出てきたな、って感じではありますね。 その隙間をどう埋めるのか。 また、非常に丁寧に主人公を描写していますが、その描写がラストにつながっていないのがちょっともったいないかな。 そのあたりをどうラストにからめて行くかで完成度がぐっと上がるんじゃないかと思います。
【アイデア】+1、【描写力】+1、【構成力】0、【恐怖度】0 |
名前: ユージーン ¦ 22:59, Sunday, Aug 02, 2009 ×
アイデア0 文章力 0 嫌悪度 1 電脳度 1 結局電脳が見せた幻の世界オチなんですかねえ…。 SF的でおもしろいですね。途中のゴキブリ嫌いの行動などはすごく納得してしまい、思わず笑ってしまったんですが。 ラストは何度か読み返さないとわかりづらかったかなあ。 >乱れたシャンジュマン・ドゥ・ピエを踊りながら、 このシャンジュマン・ドゥ・ピエって何だろう?ってわからず妙に気になりました。 ブラック的要素はあっても怖くはなかったかなあ…。 しかし、いくら子供であってもゴキブリは可愛くないもんですねえ…。(笑) |
名前: 妖面美夜 ¦ 17:12, Wednesday, Aug 05, 2009 ×
情緒的な描写から、どんどん変な展開になっていくのを狙ったようだが、ちょっと展開が急すぎてうまくいかなかった感がある。 オチはありがちなものなので、そこに例えば主人公の人生とかもっと重いものも泡沫だったという暗い味をもたせたほうが良かったのかも。
アイデア 0 文章 1 構成 −1 恐怖度 −1
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名前: 鶴の子 ¦ 21:01, Wednesday, Aug 05, 2009 ×
>乱れたシャンジュマン・ドゥ・ピエを踊りながら、わたしは総毛立った。 おそらくこの部分は、ほとんど全ての読者が読み流すと思います。 一字一句を大切に書くのなら、別の表現を選ぶ方がよいでしょう。
選んだ単語・軽くて洒落の効いた会話は人で言えば、化粧品や衣装をどうするか、だと思います。 作品の流れと進行は、その人の背骨であり、中枢神経でしょう。 この作品には、背骨がありません。
発想・0 構成・-1 文章・-1 恐怖・0 |
名前: 三面怪人 ¦ 17:21, Thursday, Aug 06, 2009 ×
・アイディア±0 種明かしが、実は電脳世界のシミュレーションでした、というのは、ありがちなオチに感じる。何かもう一手欲しいところ。たとえば、「必死にゴキを全滅させたと思ったら、今までのは予行演習。本番行くから、また頑張って」とか。 ・描写と構成+1 内容の是非は置いておいて、文章は上手いと感じた。しかし、お洒落な文章からゴキブリが登場し一転ドタバタに、というのは、ギャグ小説の手法に思えるのだが? そして機能もそう働いていて、恐怖に繋がっていないように感じるのだが。感情の変化は読者に伝わりやすい……のか? また、縁の薄い人も読者の中にはいるのだから、シャンジュマン・ドゥ・ピエがバレエのステップの一技法であることぐらいは文中で説明を加えるべきだと思う。 ・怖さ−1 ゴキ一家のくだりがユーモラスでギャグ小説としては面白いと思うのだが、恐怖小説として講評しなければならないので。怖がらせようとしていないように感じる。シュールな怖さがある……とも言えない。 ・買っても後悔しない魅力−1 恐怖小説としては−1、ギャグ小説としては+1、公平に恐怖小説として講評しなければならないと思うので−1、合計して−1。 |
名前: わごん ¦ 20:41, Sunday, Aug 09, 2009 ×
大笑いして読みました。読んでいるうちにゴキブリが私の中で萌えキャラ化してしまい、殺戮を始める主人公が悪役にさえ思えるほどでした。好きな文体で、とても読みやすかったです。 しかし残念なことに面白くて可笑しくて、私にとっては怖さとは対極の作品でした。
*文章+1 *ゴキブリの愛らしさ+1 *恐怖−1 |
名前: げんき ¦ 21:32, Sunday, Aug 23, 2009 ×
後半の超展開が圧巻でした。 SFへの舵取りが急すぎて、一回目では振り落とされてしまいました。少し複線を貼ってほしかったです。 ゴキブリがチャーミングですね。 |
名前: もりもっつあん ¦ 00:40, Friday, Sep 11, 2009 ×
なんでもない日常から、世界の命運を決める選択に至るギャップが面白かったです。ただ、オチの部分で、どんな知識を投入すれば、あんなセレブリッチ風の疑似人格ができるんじゃ! というツッコミが入りそうな気がしないでもないです。 サンプルの中から無作為に選ばれた主婦の人格を元に形成された疑似人格、とか前半とのギャップを埋める説明が欲しかった。 |
名前: 水本しげろ ¦ 17:06, Monday, Sep 21, 2009 ×
種作品公開から日数も経ち、改めて読んでみました。 文章も達者な方だと思うんですが、話が進むにつれてセレブなお嬢さんの描き方が、やや野太い感じの庶民語りへと転倒しているのが気掛かりですね。 中盤で主に書かれている文体が本来の作者の方の味と言いますか、この文章が本来、書き慣れているタイプなのかなと思います。
ここまでされるのであれば、もっと軽く、全編通してラノベ調であっても良かったかなと。 最後もちょっとせっかちだったと思いました。 いっそのことオープニングからバリバリのSFで攻めた方が、作風がごっちゃにならずに済んだかもしれませんね。
アイデア・1、構成力・−1 |
名前: 気まぐれルート66 ¦ 16:12, Saturday, Sep 26, 2009 ×
実に面白いです。 確かに虫嫌いの重要な要因の一つは 「飛ぶ。 それもコッチに向かって。」 ですよね。 全人類の統一意思と位置づけたう擬似人格さえ、このことに影響されるとは。
アイディア 1 描写力 0 構成力 1 恐怖度 0
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名前: ユーコー ¦ 07:09, Wednesday, Sep 30, 2009 ×
感心。こんなリンクの仕方を思いつくのはすごいです。怖くはないので点を出せず、残念。 |
名前: 読書愛好家 ¦ 16:16, Thursday, Oct 01, 2009 ×
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