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レギニータ  ――02
「レギニータ」から)

 サヤカの家に近付くと、そこから破壊音が聞こえてきた。鉄網の上に立つと、庭に出たサヤカが放り出した画布の山を、斧で叩き割っているところだった。
「サヤカ?」
 ミナシキに気付くと、びくりと肩を震わせて見上げた。
 人のいない通路を下り、サヤカの家の玄関を開けた。彼女は頭を両手で抱えてテーブルに俯いていたが、ミナシキの顔を見ると一瞬作り笑いをした。それから窓に駆け寄って、カーテンを閉めた。散乱する色の無い画布が見えた。
「ミナシキさん、無事だったんですね」
「ああ。今何をしていた?」
「何って――」
 やはり、絵を壊していたのだ。そう言うかわりに言い訳がましく、目をそらして口ごもった。
「うまく、描けなかったから――」
 あの『クジラ』もなくなったのか。イーゼルを見ると、そこに何も無く、木の枠だけがカーテン越しの光を浴びていた。
 口を出せる領域ではないと、ミナシキは断じた。
「探してた人、見つかりましたか?」
「いいや。俺はもうこの階層を出る。世話になった」
「待って、もうちょっと居てください。下の階層に向かわれるんですよね? 私も行きます!」
 奇妙なものを見る視線に、サヤカは強い視線を押し返してきた。
「俺が向かうのは下だぞ。上に用があるんじゃないのか?」
「違うんです、あれは――」サヤカは言葉を濁した。「中二階に買い物に......」
「なぜそんな所まで?」
「この辺りの人たち、私に売ってくれないんです」
 ミナシキは再度、何故か尋ねた。サヤカは目を背けていた。
「嫌われちゃったんです......私が、どこかの枝のどこかの葉で、詩人だったというんです。その世界では蟲の侵攻を手助けするような内容の詩を書いていたって、言われて......」
「誰がそんなことを?」
「ReRouEです!」
 初めてサヤカの口調に激しい感情が入った。
「男の人が女の子にReRouEを憑依させていました。その人が言わせたんです。そんなこと言ったって、裏が取れるわけでもないのに!」
 サヤカの目が赤く充血し、ミナシキにそっぽを向いた。
「......ReRouEは嫌いです!」

 時が経つにつれ照明が弱まり、夜は街路に白い光を放つ柱が並び立つだけとなる。人は眠る。ミナシキとサヤカが歩いている。サヤカは古びたリュックを背負い、本当についてきた。三歩ほど離れた後ろで歌を口ずさんでいる。
 自分は買い物に行くわけではないと言っても、第一階層まで行くと行っても、サヤカは意志を変えなかった。それどころか決意を固めたようだ。
「知り合いでもいるのか?」
「そんな感じです」
 帰れといったらすぐに帰る、というのを条件に仕方なく許した。
「ママは中央、分離帯で、眠るよ 車が、びゅんびゅん、音が溢れて――」
 陰気な声音だった。
「透、き、通る、おさかなが ひらひら土の上 ま、あ、るく、はみ出たママを つっつきに、来ぃましたよ――」
 ミナシキは高い塀の前で足を止めた。
「こ、ん、にちは、こんちは ち、い、さなママ――」
 二メートルは越すと思われるその塀には、上部に返しがついており、急な角度の二等辺三角形の屋根が向こうに見えた。その屋根を縁取りとして、同じく三角形の窓が高く伸びている。暗いが、その下の窓には暖かな明かりが見えた。
「おさかなさんの、お腹に透けて、ひらひら ひらひら 楽しそうだね――」
「サヤカ」
「はい」
「帰るなら今のうちだ」
 サヤカは二人分の荷物を抱えこみ、「帰りませんよ」と呟いた。
 高い柵のチャイムを鳴らした。
 応答がない。
 押すとあっけなく開いた。ミナシキは逡巡の後、足を踏み入れた。
 その建物のノッカーを鳴らしても誰も返事をしない。木に似せた材質の扉を押すと、渦巻く生臭い熱気が明かりとともに溢れ出て来た。
 視界に広がる光景の意味を理解するより早く、ミナシキは意識しない内に、右腕を後ろに振ってサヤカの進入を拒んでいた。
 内部は血の海だった。
 真正面のカウンターに、制服姿の男が上下逆になって身を乗り出している。顔面の皮膚が剥離し、床の赤絨毯に届いている。まだ血が滴るその先には、零れ落ちそうな二つの眼球と闇のように開く口唇があり、年齢とその人生を語る要素は残されていなかった。その下に仰向けに男が倒れている。腹に開いた大きな穴から臓腑が飛び散り、ずるずると引き出されたそれの先端は、右側のクリーム色の壁にもたれる男の手の中にあった。彼は血の中に足を投げ出して座りこんでいるが、首から上がない。頭は、恐らく彼の背の高さだったろうと思われる高さに、へばりついていた。赤黒く半ば凝固したぬかるみから、栗色の髪が飛び出している。
 壁時計が一つ鳴った。
 それは吹き抜けを貫く銀の柱にあって、手を伸ばすように血しぶきが飛び散っていた。上の階の廊下が、天井まで廻っている。
 うずくまるモノがあった。
 生ぬるいものを啜る物音を、三階の回廊でたてている。
 ミナシキが銃を抜くのを受けて、抱きこんでいた死体を捨てて立った。その姿をいくつものペンダントライトが温かく照らした。
 若い女だ。
 深紅のネグリジェを着ている。深緑の手編みのカーディガンを羽織り、そこから白い手足がほっそりとして、伸びている。胸まで伸びた豊かな髪を、首を振って払った。
 ひきしまった輪郭には女性らしい丸みがあり、挑発的な吊り目には、黒々と濡れるような瞳がある。
 薄い唇と尖った鼻が、清楚な印象を与える女だ。血まみれでさえなければ。
「久しぶりね、この世界における――」
 凛とした声がやまぬ内から、ミナシキは銃を撃っていた。女の姿が一瞬で消え、消えた場所の壁に銃弾が三角形を作った。
 女は天井にいた。
 一階の奥に着地する。
 放たれた銃弾が当たる直前、また姿を消した。
「――この世界のシキ」
 耳元で声がしたと思ったら、サヤカが高い声で叫んだ。
 入り口のサヤカを突き飛ばし、湿り気とシャンプーの匂いを残して、女は矢のように深夜の街路へと走り抜けて行った。ミナシキは銃を手にしたまま、外の柵まで女を追ったが、戻ってくる気配も物音で人が来る気配もなかった。
 サヤカが尻餅をついたまま、ミナシキを見上げていた。
「立てるか」
 いつか見た幽霊に似た顔色で、サヤカは頷いた。手を差し出すと、掴んできた手にはエンピツを握っていた。立ち上がらせると、胸に黄色いスケッチブックを押し付けていた。
「怪我はないか」
「えぇ......」
「何を描いていた?」
 サヤカは唇をひき結び、前髪を揺らして首を振った。
「今のは誰?」
「さぁな」
「知っているんでしょう? あなたを見て『久しぶり』って」
「それがどうした。帰るか? 今なら家まで送ってやる」
 荷を拾い上げる姿をサヤカが睨みつけるが、どうするとも言わなかった。赤絨毯を歩き出すと、足の下でじゅくじゅくと音がして赤い泡がいくつも立った。サヤカはついて来た。不快感に顔をしかめながら。下への道はこの先にしかないからだ。
「嫌な人」
 部屋の奥にゲージが立ちはだかっている。その細かな格子の向こうにエレベーターがある。
「キセリタ、このゲージの暗証番号を照会しろ」
 キセリタが二十桁の番号を即答した。その先のエレベーターはすぐに開いた。白い内装で、当然だが無人だった。
「これに乗ってたら第一階層まで行けるんですか?」
 サヤカが訊くので、キセリタに問うと、そうではないとの事だった。
「いいや。何度か乗り換えがある」
「ねぇ、さっきの女の人、顔があなたとそっくりだった」
「......」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
 サヤカはスケッチブックを抱きしめたまま、新たな切り口を探した。
「あなたが昼に探してた女の人って、あの人のことなの?」
「クロヨリレーコ......聞いたことはないか」
 ぽかんと口を開けていたが、首を横に振った。
「長い名前ね......」
 その間に手からスケッチブックを抜き取った。サヤカが慌てて手に力をこめたが、遅かった。開いていたページにミナシキの視線が定まる。
「返してください!」
 エンピツで濃淡をつけて、死体がデッサンされていた。カウンターからずり落ちかけた、顔の皮がない男の絵だった。
 慌てて取り返すサヤカの仕種に、ミナシキはビルキエを思い出していた。
 大事に抱える人形を、飴を、訓練用の小銃を、ひょいといたずらで取り上げたとき。真っ赤になって取り返そうとしていた。お転婆で、生傷の絶えない子供だった。膝小僧にかさぶたを貼り付けて、ミナシキにしがみついては泣きながら叩いてきたものだ。
 あの時は子供だった。

―3.蝶凱区間―
 血の手形が、壁沿いに、ずっと続いている。矩形の廊下は石組みで、葉脈のような配管が、壁の高いところや天井を這っている。それらはタンク型だったり箱型だったりする機械から生えていた。
 青く塗られた計器の箱に、また一つ血まみれの掌が押しつけられた。
 手形の主は、男だった。浅黒い肌を持ち、頬がこけ、目ばかり憤怒で光っている。火傷を負っていた。背中の皮膚が服ごとただれ、焼け縮れた髪が癒着している。歳は三十程度だろう。飛び出さんばかりの目玉を高い天井に向け、ちくしょう、と呟いた。
 男は憤っていた。今の自分を取り巻く状況、己をここに追いやった運命、生涯において関わりあった人間を両親から何から、全てに憤っていた。連れが居なくなったのも腹が立つし、その際荷物を持ち去られたことも腹が立つ。しかし何としてでもそいつを見つけ出さねば、道案内をさせなければ、命が尽きるのも時間の問題だった。
 肩で息をしながら男は座りこんだ。壁に背中をつけた瞬間、痛みに身を反らせた。火傷のことを忘れていたのだ。
 歯を食いしばる男に向かって、黒い影が伸びた。
「ジェノー」
 ガラスのように透き通る、高い声だった。痛みに見開いたままの目を廊下の先に向けると、黄色い長い髪の少女が、白いハイヒールの踵を鳴らして歩み寄って来た。
「抗生剤を見つけたわ。服んで」
 少女は小瓶を、両手で大事そうに、胸の大きなリボンの前で抱えていた。白いドレスは返り血と、煤や機械油で汚れている。
「レェゼ、おめぇ......」
「休めるところを見つけたわ。一緒に行きましょう」
「どこ行ってやがた?」
「やだわ、私があなたを見捨てたみたいじゃない。安全な場所を探してたんでしょ。それをあなたが勝手に動き回って。心配したわ」
 男はそれを信じるべきか、濁った目の中で葛藤していた。少女はそばかすのある白い顔で、やさしく笑っている。
「さっ」
 少女が瓶の蓋を開けると、梨のような甘い臭いが鼻先をかすめた。男はすすけた手で受け取って、臭いを嗅いで検めていたが、意を決して一息で呷った。
 何も起きない――
 と思ったとき、
 男は腹の底から声を絞り出し、首を垂れて吐き出そうとした。すかさず少女が手を伸ばし、薄い掌で男の唇を覆った。
「駄目じゃない、ちゃんと飲まなきゃあ」
 男は激しく首を振り、両手も使って少女の掌を引き剥がそうとした。激しい苦悶の声を撒き散らしていたが、喉が大きく動いて液体を飲んだ。少女が手を離した。
 立ち上がり、喉を掻き毟って身悶える男を不思議そうに見下ろしていたが、もう一度笑って言い放った。
「石鹸だよ。キレイになるよ......」
 一人遠ざかる足音が、爆音、続いて轟音にかき消された。その音すら男には、体を駆け巡るあらゆる液体と劇物の音と、区別できないかった。
 轟音は、階段と橋とそれを支える柱が闇に崩れてゆく音である。
 さほど離れていない場所での出来事だ。
 閉鎖されたかつての居住区と、人のいる世界とを結んでいた橋が、無明の奈落に墜ちてゆく。遠くに橋の入り口となった廊下が明るく浮いており、橋は、照明の柱や、ちぎれちぎれになった機械の蟲と共に地面に落ちている。水音がして、その照明と蟲の断末魔が消えた。
 橋の手前のテラスには、ミナシキとサヤカが立っている。ミナシキの指には手榴弾のピンが、まだ引っかかっていた。
 慣れない恐怖と全力疾走に息を切らしたサヤカが、退路が消えるのを目の当たりにし、その場にふらふらと腰を抜かした。
 この時、小さな赤茶の虫がサヤカの靴から零れ落ち、走り去ったことに、二人とも気付かなかった。

 第二階層の最上部で、ミナシキとサヤカは旅支度を整えた。第三階層下層でおきた殺戮について、町にはかなり正確な情報が届いていたが、インカーネイトの計らいがあってか、二人がその件について問い合わせを受けることはなかった。
 広大な輪廻の鯨を安全なルートで下りようと思ったら、それだけで何ヶ月もかかってしまう。キセリタによれば封鎖された旧貧民街は、第一階層へ直通の階段を取り巻いて発展した区域だという。外に近い、それだけ守りの薄い区画だ。その道を採用した。
 ミナシキは安いホテルの一室で、体調がより安定するのを待った。
 サヤカとも、互いについて話す機会があった。サヤカはまずミナシキに、旅の理由を聞いた。ミナシキはそれについて答えなかったが、レギニータを出て行くことだけ教えた。
「どうして病院に行かないの?」
「許されていない」
 借りた部屋の、小さなテーブルを挟んで、以前と同じ言葉で答えた。
「許さないって、誰がそんなこと言うの? 行かなきゃ、悪くなる一方じゃない」
「身分のある者だ」
「身分って――」
 ひどく難解なことを言われたかのように、サヤカは眉根を寄せた。
「そんなに偉い人なの?」
 どうはぐらかしたかは覚えていない。
「でも、ずっと遠い階層のお医者さんになら......」
 無駄なことだ。レギニータにおいて王の意思に背けばReRouEがミナシキを祟り殺す。旅を放擲することも含めてだ。ミナシキはそれを言わなかった。
 そしてサヤカもまた、レギニータを出たがっているのだと知った。洗濯した衣服を袋に詰め、ホテルに戻る途中だった。
「私は、もともと第一枝から来たの」
 川の流れに見立てた水路が町の中央へ流れてゆく。その岸はレンガの遊歩道で、川への張り出しにランタン型の街灯が並んでいた。
「お母さんと二人で逃げてきたの」
「覚えてはおるまい」
「うん。レギニータに辿り着いたとき私は一人だった。お母さんとはぐれちゃって......」
 長さの違う影を引きずって、深夜の街で二人は声をかわしていた。
「お母さんのことは忘れちゃった。姿も、匂いも、存在感も。どこでどうして別れることになったかも」
 生き延びたことの代償だ。世界の広さ、時間の長さは、それと同じだけ人の想いを拡張することを許さなかった。
「でも覚えてることもあるの。私森の中に色鉛筆を落としてきた。第一枝よ。私の故郷。おじいちゃんがくれた色鉛筆なの」
「それを拾いに行きたいなんて考えてるわけじゃないだろうな」
 サヤカは顔を赤らめて、ミナシキから顔を背けた。ミナシキは乾いた声で微かに笑った。
「死にに行くようなもんだ」
「あなたはどうなの?」
 二人とも黙りこんだ。移動を再開する前夜のことだ。

 崩落の残響が消えてゆくなか、変わらず聞こえる一つの音があった。激しく痰を切るような、体の中を全部吐き出すような。二人は同時に人の声だと気付いた。
「誰かいる!」
 それは足もとのほうから聞こえてくる。二人は互いの顔を見合わせ、奥の通路へ走った。狭い階段が分岐しており、そこからまっすぐ、悶える声が立ち上ってくる。四角く折れ曲がる階段を下りると、アーチ天井から照明のぶら下がる明るい通路に出た。男が壁沿いに横たわり、足をばたつかせていた。
 背中に熱傷を受けており、両手で喉を押さえて首をもたげ、大量の血を吐き出している。血と共に鼻を衝く薬品臭があった。
「――おい! 大丈夫か!」
 男は一度頭部を、今しがた吐いた血の中に沈めると、もう一度首を上げて嘔吐を始めた。駆けつけてみれば、そんな血の跡が廊下の奥から続いていた。ミナシキは膝をつき、男の両肩を持ち上げるようにして上半身を支えた。
「サヤカ、水を!」
 遅れて来たサヤカが、床に投げ出されたザックから水のボトルを取り出した。男は錯乱しているのか、首を振って抵抗したが、ミナシキが強引に口に含ませると自分でボトルを持った。半分ほど飲み、その水と一緒に、また薬くさい泡立つ血をその場に吐き始めた。
「しっかりしろ、何をのんだ?」
「――り――りる――」
 男が残りの水を飲もうとする。その手を支えた。
「い――が――」
「吐くな、爛れるぞ!」
「どうするの?」
 立ちつくすままのサヤカが尋ねた。そうだ。吐くなと言ったところで医者に連れて行けるわけではない。帰り道はふっとんでしまった。男がまた吐いた。
『この者はまだ劇物を摂取してからあまり経っていないようです。吐かせましょう』
 キセリタが言った。
「他に戻る道はないか?」
『いいえ。このすぐ先に住宅地が保存されています。そちらへ運びましょう』
「分かった。おい、つかまれ。サヤカは荷物を頼む」
「ミナシキっ」
 サヤカの驚愕の目線の先に、男の吐瀉物がある。そこに浸された服の、膝の色が、黒から赤茶に抜けていくところだった。男の顔も、血で分かりにくいが爛れて変色している。
 首に男の腕を回し、立ち上がらせた。強引に歩かせて、廊下の先へ急ぐ。
「ねぇ、監視官の人が言ってたことって」
「なんだ」
「先に入った人たちがいるって、この――」
「ああ、だろうな」
 男がまた暴れだした。腕を振り、ミナシキを突き飛ばして倒れこみ、また凄まじい声と共に嘔吐を始めた。ミナシキがそれを叱りつけて立たせる。
「どう行けばいい?」
『あの角を曲がったところです』
 顔を上げると、ほんの二十メートルほど先で壁が折り曲がっており、行く先の暗さが滲んでいた。男を引きずるように進むと、シャッターが外に向かって破れていた。
 その向こうは、町だった。
 天井が見えない――高さと暗さのせいだ。目の前に一直線の道が伸び、橋と交差している。左側は三角屋根と形ばかりの塀を持つ家が並び、右側は柵があって落ちこんでいる。橋の向こうには広場があり、その様子を発光柱が白く照らしていた。
 道に向かって赤い玄関が取り付けられた、平屋建てがあった。失神した男を地面に置き、玄関を蹴破った。
 動くものの気配はなく、埃さえ眠っている。
 目が慣れるのも待たず、男を担ぎこんだ。奥の寝室に寝かせると、男がまた「おうおう」と呻き始めた。サヤカが台所に走って、銀色のボウルを持ってきた。その中に吐かせると、すぐにいっぱいになった。
 男は泣いていた。
『恐らくクレゾール中毒でしょう』
 サヤカが部屋にあったシャツで男の顔を拭くのを見ながら、小声で尋ねた。
「それは?」
『コールタールを精製して得られる消毒薬の一種です。多くの場合石鹸に溶かして使用されますが、経口摂取した場合、溶液の通った順に粘膜が腐食し、出血、糜爛(びらん)、壊死といった症状を引き起こし死に到ります』
「どうすればいい?」
『活性炭の経口投与が有効とされておりますが――』
 ミナシキは歯軋りをした。
「どこにそんな物がある」
『酷ですが、どうしようもありませんね』
 あっ、とサヤカが声をあげた。血で汚れたシャツを持ったまま、戸惑った表情でミナシキを見上げていた。
「どうした?」
 部屋の隅から歩み寄り、男に顔を寄せた。血を拭われたあとの肌が、不自然に赤くなっている。必死に目玉を動かしてミナシキに何か訴えかけている。開いたままの口からは、今も血が零れ落ちるままとなっている。
「私、この人知ってる」
「何だと」
「ReRouEを連れていた人よ。前話した、私にどこかで詩人だったって言った人」
「間違いないか」
「ええ」
 サヤカの目は動揺しているが、頷き方には自信があった。
 音をたてて果物くさい息をする男の前に、ミナシキも身を屈めた。
「お前、名は。俺はミナシキ」
 紫色に爛れた舌が見えた。その舌を動かして何事か言おうとしている。息の音に意識を集中させた。
「......ジェノー?」
 頷く。
「相方がいるだろう。ReRouEを憑依させた人間が」
「――に、に――ニゲタ――」
「馬鹿な。ReRouEがインカーネイトから逃れられると思うか」
 男は首を振りながら、ミナシキに顔を寄せようとした。
「そとに――そとに――」
 ゲッ! と血の塊が口から飛び出した。それをきっかけに、出会った時と同じ調子で激しく身悶えながら、壮絶な嘔吐をする。みるみる内に枕が赤い塊に変わり、古い布団とシーツを侵食していく。
 唖然とするよりほかなかった。
 ジェノーの腕がミナシキに伸びた。
「助けてくれ!!」
 我にかえり、新しい水のボトルを開けてジェノーの口に流しこんだ。受け取ろうとする手首を掴んだ。
「俺たちがやれる水はこれで最後だ。お前の荷はどこだ!」
「!!!!!」
 聞き取れなかった。
「お前のReRouEが持っているのか? 近くか?」
 何度も頷く。
「ミナシキ、この人が毒をのまされた所は?」
「さっきの廊下だろう――」
 思い直して口をつぐんだ。
「キセリタ、近くに病院か何かないか。クレゾールとやらが手に入りそうな場所が」
『インカーネイトに問い合わせます。ただ今現在地の情報を照会中――。閉鎖直前の広域地図によれば付近に薬局が存在します。まだそこに留まっているとは思えませんが――』
「他に手掛かりもないだろう。付近に交信できるReRouEは存在するか?」
『いいえ。先ほどから試行しておりますが確認できません』
「そこを当たる。サヤカはここを頼む」
 悲しげな顔で腰を浮かしかけたサヤカだが、何も言わず、姿勢を戻した。
「分かった。はやく帰ってきてね」
 ジェノーも腕を伸ばして息を乱し、何事か言わんとしている。
「れ......――」
「――レェゼ? ReRouEの名前か?」
「気を付――」
 ミナシキは深く頷いて、ベッドに背を向けた。
 もだえ苦しむ声は、橋のたもとまで聞こえた。落ちこんだ道の下も道路で、平屋建てが広がっている。その眺めに沿って進むと、噴水のある広場に出た。
 中央のオブジェにバルブがついている。回してみたが、軋みを立てるだけで、やはり一滴の水も出なかった。
『左折してください』
 キセリタに導かれるまま、一番太い道に入った。
 その足がある地点で止まった。
 皮膚が騒いでいる。何かおぞましいものがあると。
 ミナシキは銃を抜いた。
『このまま直進。あの二階から緑の看板が出ているビルを左折』
 暗い路地に飛びこみ、壁沿いに音もなく走る。
 銃を向ける。
 血溜まりに死体が落ちていた。長い金髪を三角に広げている。
 銃を左右に向け、鋭い視線を辺りに射向けながら、慎重に死体に近付いた。うつ伏せの死体を、足で蹴って表向かせた。
 その顔を知っている気がした。白い肌。そばかす顔。凹凸が大きく気の強そうな印象の顔立ちを、寂しそうにさせている。
 認識は星が流れ落ちるほど鮮明に訪れた。
「ビルキエ!!」
 ここにいるはずの無い、少女だった。

「サヤカ!」
 家の入り口から叫んだ。
 駆けこむと、ベッドの足もとで身を屈めたサヤカが怯える顔を出した。
 そこに明らかな異常があった。
 ジェノーに、蝶がたかっている。
 どこから入りこんだのか、白く光る蝶が十かそれ以上、ベッドの上を飛び交っている。一匹が掌ほどの大きさがある。
『あれたちは無害です』
 キセリタの言を信じ、銃を乱暴に収めた。
「サヤカ、その蝶はなんだ?」
「分からない、壁をすり抜けてきたの」
 蝶が、一匹ずつ、ジェノーに纏わりついて消えてゆく。それが物質による存在ではないことに初めて気がついた。ベッドの前に立った。ジェノーは斑な顔色で、口を開けたままミナシキを見上げた。
「ジェノー、レェゼの宿主は殺された。ReRouEは行方がしれない」
「殺された?」
 応じたのはサヤカだ。
「他に誰かいるの?」
「あぁ......」
「あの女なの?」
 サヤカを目で制し、その視線を、そのまま腰の剣に移した。
「どうだ、キセリタ」
『あの者は蟲にも人間にもなり得ます。どちらの気配も私には感知できません』
「奴は血を移した死骸を操作できただろう。それは分からないか」
『はい。インカーネイトにとっても未接触のものですから』
「そうか。......ジェノー、お前は俺たちに会う直前、せいぜい数分前に劇物を服まされた。そうだな」
 頷く。
「その時点で宿主は殺されていた。お前が見たのは歩く骸だ。お前のReRouEの性格や行動が変貌した時期は分かるか?」
 喉が音を立てている。顔の前にしゃがみ、耳をそばだてた。
「か――変わらない」
「なに?」
「あいつは――最初から――俺を殺すつもりだった――この場所で迷わせて――」
 ひいっ、と息を吸いこんで、嘔吐の前兆を見せた。
 するとカーテンをすり抜けて、光る蝶の奔流が押し寄せた。蝶は一本の柱となってジェノーの楕円形の口に吸いこまれていった。
 彼は結局咳をしただけだった。ミナシキがつらつきを変えるのを見て、こけた頬を引き攣らせて笑った。
「ReRouEはみんなそのつもりだ――てめぇが外に出られりゃいい――どうせおめぇのReRouEもな――それが王の望みだ――俺たちの死を――有効に――」
 後は息の音を立てるばかり。質問の角度を変えた。
「お前はもう何ヶ月も前に第三階層を通り抜けたそうだな。ここに来るまで何をしていた? 遊び呆けてでもいたか」
 それにも頷いた。
「期限を――」
「――レギニータを出る期限、か」
「言い渡された――不可能な期限だ――そしたらあのガキが――二日で第一階層――に抜ける道があるって――」
 目から力が抜けた。瞼が落ち、気を失った。
「ジェノーさん」
「意識を失っただけだ」
「ミナシキ、この人の話おかしいよ。急いでたならこんな場所にいるはずないよ」
「戻ろうとしていたんじゃないか。先で何かあったんだ」
 ミナシキは立ち上がり、ジャケットの胸ポケットから懐中時計を取り出した。
「......じき夜が明ける。昼が来るまでに距離を稼ごう」
「この人は?」
「置いてはゆけまい。布を集めてくれ」








(「レギニータ」03へ続く)

【事務局注】
この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。
このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。
これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「レギニータ-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。

なお、正式タイトルは「レギニータ」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。


08:52, Thursday, Aug 20, 2009 ¦ 固定リンク ¦ 携帯

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【−1】柿の木だけが知っている (峠の塩入玄米茶屋/2009) «

【0】ある告白 (峠の塩入玄米茶屋/2009) «

【0】あなたの気持ちが知りたく .. (峠の塩入玄米茶屋/2009) «

【−1】遠い光 (峠の塩入玄米茶屋/2009) «

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潜む実話怪談

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