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(「レギニータ」03から)
その部屋の入り口で、ミナシキの足が止まった。 高い吹き抜けになった部屋に、硬い材質の、見上げるほどの渦巻きが蟠居していた。 蝸牛(カタツムリ)だ。 粘膜に覆われた胴体が、高みからミナシキを見下ろしている。 長く伸びた二つの触角の中で、七色の光が輪になって上下している。部屋の光源はその触覚と、飛び交うばかりの蝶である。 『reuco.(レーコ)に寄生されています!』 ミナシキは黙って剣を抜いた。金属のこすれる音を合図に、蝸牛が大きく身を反り返らせた。 見上げたまま、動きをひきつける。 振り下ろされる直前、左回りに走り出した。 轟音と共に床が揺れる。蝸牛の頭部が叩きつけられた床が沈み、瓦礫が左右に飛ぶ。床に転がってそれを避けると、すぐに立ち上がって同じルートを駆け戻る。 忘れていた高揚感があった。 肉体に少し遅れていた精神が、一体化し、追い抜いてゆく。魂の早さが世界の時の流れを僅かに先行し、一秒にも満たないほど先の未来が見えるような。あれほど病んでいた体が、戦意に導かれて鋭い。 弾けとんだ床石を飛び越えて、剣で縦に半円を描く。その剣の付け根から蝸牛が切り裂かれ、体液が弾けた。 機械じゃない。生体兵器だ。 不快な汁気を跳ねるように躱し、片足を遠くに置き、そちらに身を寄せながら今度は袈裟斬りに薙ぐ。返す刃で横に払い、更に肩越しに剣を振り上げる。斬りおろす。 新しく開いた裂傷の中で、筋肉がぎゅっ、と縮まるのが見えた。 七色の光輪を宿す膨張した触覚が、二本ともミナシキを振り向いていた。 正眼で向きあった時、触覚の下の口が開いた。人間の大人ひとり悠に呑みこむであろうその口が、それまでの緩慢な動作を裏切っていきなり顔の前に迫った。 重い肉がぶつかり合う音を立てて、その口が閉じた。後ろに跳んで避けるが、二度、三度と続けて襲い掛かって来た。 その体勢では追撃しきれなくなった蝸牛が、口を開け放って頭を高く持ち上げた。 攻勢に切り替える。 剣を収め、振り向きながら機関拳銃を抜く。 白いストールの端尾が二本、動きに振り回されてはためく。 その隙間から右側の触覚に向けてトリガーを絞る。 三十三発の弾丸が触覚の付け根に吸いこまれてゆく。 全て撃ちつくすと同時に、やっと触覚がちぎれ落ちた。 外傷に対して鈍化されているはずの痛覚も、それと首の傷に耐え切れず、口を大きく開けて頭部を暴れさせた。それが壁に打ち付けられて瓦礫と砂塵が降り注ぐ。耳を聾する破壊音のさなかで、キセリタが何か叫んだ。逃げるよう言ったのだろう。蝸牛の長い胴体に沿って走る。 距離が開くと、ちょうど盾のように、崩落した壁が突き立った。 マガジンを入れ替える。暴れまわる頭部の先に、今度は数発ずつ撃ちこむ。振り絞るように頭の動きが苛烈になり、ついにもう一本の触覚が?げると、頭部が木のように硬直して――そのまま倒れた。 床が打ち震え、埃が舞い上がる。争いを避けて舞い上がっていた蝶たちの光を反射し、光の粒が息絶えた蝸牛に降り注ぐ。じっと耳を澄ませていると、埃が降り積もる音さえ聞こえそうだった。 最後のマガジンに詰め変える音だけ、静かに響いている。 背後に注意を向けながら、蝸牛の尻尾のほうへ歩いた。意外と奥行きのある部屋だと分かってくる。 手すりがあり、幅広の階段があった。尻尾の先で階段の下の暗がりに目を凝らし、迂回してまた、頭を目指す。 呆気なさすぎる。 あのレーコが宿主と命運を共にするなど考えられない。 どこかに潜んでいるのかと、足を止めて目を閉じる。聴覚に意識を集中すると――何か粘り気のある物が、跳ねるような音が聞こえた。 目を開ける。 間違いない。 蝸牛の潰えた頭へ足を早め、走りかけた時。 『伏せなさい!』 キセリタの声が動きを制した。大きな動きを感知したが遅かった。 蝸牛の尻尾が音もなく撓っていた。 一瞬だった。動けなかった。そのままでいる間に、重い肉の塊が腹と胸を打った。 鋭い悲鳴をあげて、跳ね飛ばされた。 体が浮き、床に叩きつけられる。埃を散らして床を滑り、火がつくほど体と頬が擦れ、頭と背を壁に打ちつけることでその動きがとまった。 『ミナシキ!!』 キセリタが叫び、意識を失いかけていたことに気付いた。慌てて目を開けようとすると、視界が真っ白に光った。 呼吸を弾ませながら立ち上がろうとすると、打たれた場所が、また意識が飛ぶくらいにカッ、と痛んだ。 自分の呻き声で意識を手繰り寄せ、今度はゆっくり瞼を上げる。 何かが蠢く音が、次第に大きくなる。倒れたまま目をこらすと、床に水溜りが照っているのが見えてきた。血? その血溜まりから白い手首が生えた。その指が、血の表面を這い、乾いた岸を掴んだ。 ぶわっ、と黒髪が浮上する。 もう片方の手が、肘をつき、頭部が浮き上がるのを支えた。髪が張り付いた額を拭い、現れたレーコの目が、ミナシキを見て笑った。 「くッ――」 ミナシキは腕で這いずって階段へと後退した。その間にも岸に手をつき、レーコが血の海から生まれ出てくる。ほっそりと白い腕。臙脂色のケープと茄子紺のワンピースの下でふっくらと強調させた胸。ストッキングを履いた脚が床に上がる。 二人は目を離さない。 ミナシキは階段脇の手すりまで辿り着いていた。金属の手すりに縋り付いて、立ち上がろうと?く間に、レーコがヒールの踵を鳴らして涼しげに距離を縮めて来る。 何とか、両足が立った。背中を手すりに当て、右手に手榴弾を取る。傷が熱を放ち、脈打って、平衡感覚を狂わせる。何とか立っていると、レーコが数歩の距離で前に立った。 「あら、今日は自爆するつもり?」 手榴弾のピンに指をかける。 「そんなに私に従うのが嫌?」 ミナシキの目に答えを見出したのか、天井を仰いで高笑いをした。その声が風であるかのように、蝶たちが虚空に円形に退いた。 「だったら私の勝ちだわ! 私はあんたほど弱くない。私は誰にも従わない! そして死にもしないのよ!」 「――どうかな」 ミナシキが頬の擦り剥けた方へ、唇を吊り上げて笑った。 キィン、と甲高い音を立てて手榴弾のピンが抜かれる。 それをあらん限りの力で、蝸牛の殻の天辺目がけて擲つ。 笑いを止めたレーコの胸倉へと腕を伸ばし、引っつかんで仰向けに倒れこむ。 吹き上がる爆炎が聴力を奪った。 覆いかぶさる、レーコの見開いた目から顔を背けた。 臓腑と共に吹き飛んだ蝸牛の殻が、壁に、床に、傘代わりにするレーコの背中に無数に突き刺さる。凄まじく甲高い悲鳴がレーコの口から迸った。両足を引き寄せ、レーコを腕でかざしたまま上半身を起こした。甲殻の雨が降り止むと、投げ捨てて立ち上がった。爆発の残響はやまず、壁を亀裂が走りぬける。銃を抜いた。 「どうした」 銃口を向けながら、倒れ伏すレーコに問いかけた。 「この程度で死ぬお前じゃないだろう」 ミナシキの挑発の笑みに、凶悪さを露わに目を吊り上げる。多分、俺も同じ目をしているのだと、冷酷が囁いた。一方で崩落の予感を孕んだ物音が天井あたりで鳴り響き、ついに石材が崩れ落ちてきた。 血にまみれた口から絶叫のような鬨の声を上げ、両手両足でレーコが跳ね上がる。その手にナイフが握られていた。二度三度薙ぎ払われるそれを、すんでの所で後ろに躱し、改めて銃口を向けたところでレーコが大きく膝を屈した。 砂埃の中へ高く飛び上がり、ミナシキ目がけてまっすぐ下りてくる。 レーコのナイフが、ミナシキの肩と耳の間をすり抜ける。 体当たりを受けたその背後は、階段だった。 二人は一緒くたになって階段を転げ落ちた。 階下まで落ちたとき、体重のあるミナシキが下になる。ミナシキを組み敷くレーコが、血と憤怒に汚れた形相でナイフを頭上まで振り上げる。 喉に突き立つ直前に、ナイフを右手の銃で受け止めた。青い火花が散る。無言の押し合いが続く。それをミナシキの左手が破った。手刀がレーコの側頭部を、長い髪を巻きこんで打つ。体勢が崩れたその隙に、ナイフを払い、一息に姿勢を入れ替えた。 今度はミナシキが上になり、銃口をレーコの口に突っこんだ。前歯がへし折れる。両膝で胴体を押さえこみ、左手で首をしめて抵抗を奪った。 「俺の勝ちだ、レーコ」 左手の中で小さな喉が烈しく上下する。彼女は唇と舌を動かしていた。 「――憶えておくといいわ」 喉への力を緩めてやると、レーコは銃を含んだままそう言った。 「私は、どこの枝にもいるわ――あんたがそこを――通りかかることがあれば――私の分身が、絶対あんたに、復讐しにいくわ」 トリガーを引いた。 二発、撃ちこんだ。頭が持ち上がり、ちぎれた頭皮が床を滑っていった。血と、寄生虫に冒された灰色の脳がこぼれ出てくる。 ミナシキは、立ち上がり、レーコから離れた。 十歩も歩かぬ内に膝をついた。 凍えるほど寒く暗いのに、脂汗が引かない。腹の怪我に手を当てて背を屈めた。 『歩けますか?』 キセリタが囁いた。彼女はミナシキが返事をするのを黙って待っていた。 「......もう急かさないのか?」 『......皮肉を言う内は心配もしますまい』 「大丈夫だ、まだ動ける」 ミナシキは言った。 「サヤカを迎えに行ってくれ」 『了解』 光が剣から飛び立って、瓦礫で埋まった二階へと飛び去った。それがいなくなると、ミナシキは意を決して立ち上がった。 夢見るような足取りで歩いてゆく。 一歩ずつ、確実に。
閂を抜き、重い鉄扉を開けると、信じられないほど冷たく吹きすさぶ風が、体中を打った。そこは屋外だった。 血を吸った綿のような色合いの雲が、見渡す限りの空を埋め尽くしている。そこから舞い落ちる粉雪が、風の強さに滅茶苦茶に翻弄されている。雪、というものの知識はある。実物を見るのは初めてだった。 虚空と鉄扉の間には、左から右へなだらかに下りるスロープが横たわっていた。厚く積もった白い雪が、長い間誰も通っていない事実を物語っている。 足首まで雪に埋めながら、スロープを横切り、胸まである石の壁に身を乗り出した。大地は相変わらず遥か遠くだ。見上げる気にはならない。 強打した腹も、頭や背も、熱と痛みを持っている。耐え切れずに座りこむと、走ってくる者があった。 今しがた開けた鉄扉から、サヤカが姿を見せた。 平たい薄い靴は、走りにくかっただろう。何度も転んだと見えて、膝までを覆う衣服もそこから伸びる細いパンツも擦り切れ、埃まみれだ。顔や掌にも血を滲ませている。サヤカの肩から荷物が滑り落ち、ミナシキの前に屈みこんで両肩を掴んだ。 「サヤカ、喜んでいる暇はない」 ミナシキもまた腕を伸ばし、サヤカの肩に触れた。 「よく聞け」 腹にも喉にも力が入らず、なんとか動く唇にサヤカの目が注がれる。 「ここを下ると分岐がある――右側が居住区、左側が貨物軌道――右に行け――そこで保護を求めるんだ――」 「人がいるのね」 「ああ。もし戻って来た時に――俺が口をきけなくなっていたら――」 投げ出されたザックに目を動かした。 「あれの内ポケットに現金が入っている――第三階層に戻るのに足るはずだ――」 傷ついたように目を見開いて、突き飛ばすように両手を離した。サヤカは物も言わずに坂を下っていった。 一人になったミナシキは、そのまま雪に埋もれて倒れた。皮のめくれた顔には、その冷たさが心地よかった。顔の横に投げ出された自分の手を見ていたが、その目の光も失われ、瞼を閉じ合わせた。 二度と開くことがないように思われた。 闇の中で、次第に聞こえてくるものがあり、ついには少女の笑い声になって耳朶を打った。 「王子、討ち取ったり!」 金色の髪をポニーテールに結った少女が、玩具の銃を手に立っていた。品のいい調度品で装われた、明るい応接間だ。そこは最上部にあるミナシキの自宅だった。これが見えるはずの無い光景だと、よく分かっていた。それでも懐かしいそばかす顔と、ぱっちりとした大きな目から、目をそらすことができなかった。 「病人に向かって何たる狼藉だ」 数ヶ月前の自分が不機嫌に言って、額に立った吸盤つきの矢を毟り取った。この部屋に入った途端、ビルキエに撃たれたのだ。ミナシキは今より体格がよく、表情に精彩があった。矢をガラスの机に投げ出し、ソファに腰を下ろした。 「鬼の霍乱とは正にこのこと! 随分長引く風邪じゃなくて?」 「大したことはない。疲れが溜まっていただけだ」 そう言って咳をした。乾いた咳が二度ほど出ただけで、それ以上は続かなかった。 「小うるさいのの相手をせずにいれば治ろうものを......」 「ひっどい言いぐさぁ。せっかく心配して来てやったのに」 「無用だ」 「医者には診せたの?」 「いいや」 だと思った、と言ってソファにふんぞり返り、スカート履きのまま片足を膝に乗せた。 「いっぺん、呼んだほうがいいんじゃないの?」 「俺は医者も病院も嫌いなんだ。少し寝ていれば治まるものに、何故そんな手間をかけねばならん」 「でも咳したりダルがってるオニーサマなんて変だもん」 「その呼び方はやめろ」 「嬉しいくせに」 「嬉しくない」 「いいや、嬉がってるね」 やりとりが、すぅっと遠のいた。元通り暗黒に包まれて、何も見ることができない。 あぁ、と嘆いて薄目を開けた。睫に雪がくっついていた。 あの時、ビルキエの言う通り早く医者にかかっていれば――。 「許してくれ......」 彼女がミナシキをだしに脅され、レェゼと共に放り出されることはなかっただろう。あんな寂しい顔で死を迎えることも、なかっただろう。 「許してくれッ......!」 頬の冷たさで、涙を流していることに気付いた。 いつの間にか人の気配に囲まれていた。一つずつは幽かだが、確かにいる――ざわめきあっている。 青白く透き通る足がミナシキの周りを行き来していた。見詰めている内に、発作が来た。体を丸めてやり過ごそうとするが、力が入らず、痰を切ることさえできなかった。呼吸ばかりが加速していく。 痰が喉に詰まった。 息が、吸うことも吐くこともできない。 雪を掻き、喉を掻いてもがいた。 腹に何者かの蹴りが食い込んだ。すると痰と唾と血が吐き出され、雪の上にとんだ。大量の空気が壊れゆく肺に流れこみ、喘鳴とともに激しく咳きこんだ。堰きとめられていた血痰が次々と吐き出される。 もう一度何者かが腹を蹴りあげた。薄目を開けるとわき腹に踵落としをくらった。 「立て!!」 男の怒号が直接頭の中に響いた。軍人らしき人物の脚が、滲む視界に映った。それが今度は顎を蹴る。頭の中に無数の人間のざわめきが聞こえてきて、膨張し、正気をかき消すほどの音量となる。立ち上がろうと持ち上げた肩を、靴が踏みつけた。雪に伏す背中をまた靴が蹴り、踏み躙り、その人数が増えてくる。 立て、立て、という乱暴な意思が伝わってくるのに、それを邪魔して暴挙が続く。 苦痛に耐えきれず、寿命を抉り捨てるように叫んだ。悲鳴と言ったほうが近い。その声が雪の弾幕をすり抜けていくと、頭の中の声が小さくなった。 喘ぎ、呻きながら、腕を支えに身を起こした。手の甲を覆うグローブで口を拭った。 もう手を出すものは無かった。 背中に白く、白いストールには黒く、無数の靴跡が残っていた。心ない言葉によく似た視線が方々から射向けられていた。倒れ伏そうとする体を、壁についた掌で支えた。その指先にかすかに当たる感触があった。 「やぁ、ヒトのお兄さん、久しぶり!」 場違いに明るい中年男の声がした。 「大丈夫ぅ? って聞くまでもないね! なんかさらに痩せたみたいだしぃ。せっかくレーコに勝ったのにこりゃヒドいザマだ! 自分の葉を出ないうちからこんなにズタボロにされてるんじゃあ、先が思いやられるね!」 首を上げ、壁を見た。グローブからはみ出た指先に、いつぞやのアブラムシが二本、小さな脚を乗っけていた。触覚をミナシキに向けてそよがせている。 「あっ、こいつらね。幽霊だよ。って見りゃ分かるか。あはは。ほら、君のReRouEの主人格が帰ってきてないだろう? だから君をいじめて憂さ晴らししてんの。所詮、有象無象の亡霊の寄せ集めだからねえ。自分の枝に帰りたくってカリカリしてんのさ!」 ミナシキは虫に問いかけようとしたが、声にならなかった。それを察して虫が話した。 「あっ、僕が誰か知りたいって? ホントはいけないんだけどなぁ。お兄さんにならいいよ。お気に入りだし。この仕事にもイヤケさしてきたしさ。僕は『観測機』って呼ばれてるよ! 立場的にはReRouEに似たもんさ。ただ所属する立場が違うけどね」 「――」 「あっ、無理に喋んないほうがいいと思うよ。聞きたいことは大体分かるからさ。――人類の味方じゃないよ。ッていっても蟲の味方でもない。調停機関さ。誰とは言わないけど、蟲の向こう側の勢力が、この戦争で不正をしたり、使っちゃいけない武器を使ったりしないか見届けるのが役目さ」 相手が誰かも分からないというのに、不正もへったくれもあるか。そう言おうと思ったが、安全な声の出し方が分からない。 虫が、雪の上に落ちた。 「あははぁ、やっぱりアウトぉ! 喋っちゃいけなかったな!」 雪の上でひっくり返り、か細い六本の脚をばたつかせ出した。ミナシキは慌てて掌に掬い上げた。転がして裏表を直してやったが、虫はもう動かなかった。 「いいよ――どうせもう飽きたしね......どうせなら見甲斐のある人間に、味方してやってさ――」 「――!」 「あはは、お兄さん優しいね......いいよ、こういう死に方ならさ、生きてきた甲斐? みたいのがあるじゃん――」 ミナシキは唇を動かした。虫の体が尻のほうから白く変色してゆく。 「名前を聞いてくれるのかい!?」 その白が、虫の腹まで来た。 「僕はハ――」 一瞬で、その触覚の先までもが、白い物質に変わった。石によく似ているけれど、風が吹き付けると粉々になって吹き飛んでしまった。 それはただ、機械が一つ壊れただけのことかもしれない。だが一つの死の虚しさが、何も無い掌に残っていた。いつの間にか亡霊たちも姿を消していた。 ミナシキはそのままうなだれていた。 何か大きな視線を感じた。 不可視の存在が身を包んでいる。 それが囁いた。 「――『未来』だ。老いと病と死が待っている」 深い知性に満ちた、男の声だった。 その気配も風雪に紛れて消えた。 ......残されたミナシキは、壁に手をかけ、立ち上がろうと何度か試みた。やがて細い二本の脚が、重い体を持ち上げた。坂の下へと歩き出す。 それはほんの数歩のことで、ミナシキの肉体は、今度こそ力尽きて倒れた。 だけどそのことに気付かずに、ミナシキは歩き続ける。 暗い坂道を。この雪の降る道の、遠い出口を求めて。
―4.クジラの色― 空はどこまでも赤く、無音にして無風。 赤茶に罅割れた大地には、黒い鉄塔が横一列に整列している。 鉄塔は電線を張り渡しながら、禿げ山をまたいでゆく。 土壁の家が抜けた歯のように点々と転がっている。 家には、四角い小さな窓がたくさんあいていた。窓から見える一室は、家具もなく天井板もなく、腐れ落ちそうな床を隠蔽するように、紙が散乱している。甘ったるいクレヨンの臭気が中空を漂っている。紙にはどれも絵が描かれている。それは遠い国の家の絵だったり、山河の絵だったりする。 絵の家や水面から次々と、透き通る人間が立ちのぼり、においのように揺らめきながら、紙の故郷をさがし始める。 聞こえてくる歌があった。 少女のか弱い歌声と共に、足音が部屋の外の階段を上ってゆく。 頭に日よけのバンダナを巻いた女の子が、濡れた洗濯物を抱えて地下室から上がって来た。十を過ぎたかどうか、という年頃で、乾いた砂が堆積する傾いた階段に、足跡を刻んでゆく。日の光というのがどこから来るものか分からぬ。暑くもなく、寒くもなく、天空はどこも同じ色をして、影は足元に真ん丸く淀むばかり。それでも窓のほうは明るい。少女は屋上を目指している。 「かた、くり、打ち落とし、少、年は、春を呼ぶ――」 頭上から射しこむ光があった。 「早、蕨、踏みしめ、青年、は――」 目を細めて、屋上に立った。顔を赤く染め、少女は続く言葉と旋律を見失う。 「青年は......」 物干し竿に歩み寄りながら、身の内の空虚に湧くはずの次の言葉を待った。 「......鬱熱と?」 青年はどうなる? 「......爛れおちて......?」 いつも言葉が切れるとき、吹き抜ける予感がある。 この先の未来に悲しい別離があると。 山の麓に沿って続く人の列が見えた。言葉もなくうなだれて、どこか別の世界を目指す。黒い影。赤と黒、それだけ。 「――世界の色は誰が塗ったの?」 心を叩く問いかけを、今日は口に出してみる。 襟口のよれたシャツが、ずり落ちて答えた。 「お母さん――」 人の列に目を凝らしながら少女は囁いた。 「沙也香はここよ――」
少年が川べりで足を止めた。 どこから歩いてきたのか分からなくなったのだ。 空の色は淡い水色で、少しずつ雲が純度を増してゆく。吹きつける風は冷たいけれど、微細な生物と排ガスを含んだ濁った匂いがする。その風を吸いこみ、鼻から吐いた。微笑みを作ってみても、無性に情けなくて悲しかった。少年が立つ堤防には、交差する橋まで桜が植わり、固い蕾を徐々にやわらげようとしている。堤防の下では川の流れに沿って広場が続いている。 ユニフォームを着た友人たちがキャッチボールをしていた。監督が保護者からの差し入れを詰めたクーラーボックスの横で座って様子を見ている。少年はコンクリートの階段を下りはじめた。 「黒依くん!」 キャッチャーミットを嵌めたままの手が大きく振り上げられた。一年以上会っていなかった幼馴染だと気付き、少年は走り出す。 階段の縁で足の裏が滑った。 世界が反転する。 痛みを予想して、身を引き攣らせて目を開ければ、そこは小児病棟のベッドである。夜がほの明るい。窓の向こうの病棟との間に粉雪が舞っているからだ。 少年は体に毛布を巻きつけ、振り切るように寝返りした。 こんな時間に誰か、やってくる者がある。 足元のカーテンにぐわんと影が広がり、カーテンをめくって、双子の玲子が顔を覗かせた。 「識(しき)」 黒い髪と黒い服に覆われているから、顔だけが浮かんでいるようだった。寝たまま、識は笑いかけた。 「元気にしてた?」 二人は窓を向いてベッドに腰掛けた。同室に気を遣い、静かに囁きあった。 「具合はどう? おなか痛くない?」 「大丈夫だよ。家に帰らなきゃ熱も出ないしおなかも痛くならないんだ。お姉ちゃんは元気?」 「うん」 玲子は頷いただけで、それ以上語ろうとはしなかった。 「こないだ言ってた、新しいお医者さんはどうだったの?」 「僕、あの人キライだよ。だって変なこと言うんだもん。お姉ちゃんのことホントはいないんだって。僕にお姉ちゃんが見えるのは、あの女と仲良くしたくないから逃避で見えるんだって」 あの女とは、母親の再婚相手が連れてきた八歳上の義理の姉のことである。 「医者ってずるいよ。あんだけ検査しておいて原因わからなくってさ、結局僕の心が悪いっていうんだ」 「それは辛かったね。悔しかったでしょう?」 「お姉ちゃん、お昼に病院来てよ。一緒にアイツに変だって言おうよ」 「識、ごめんね。お姉ちゃんね――」 玲子が識の手に手を添えて、首筋を見せてうなだれた。 「そのお医者さんも、お姉ちゃんのことは見えないよ」 「どうして?」 「お姉ちゃんは遠い世界に行って、識たちとは別のイキモノになったの。前にも言ったよね」 「どういうことか分からないよ。お姉ちゃん、何にも変わってないよ」 「変わったよ。お姉ちゃん今、識にしか会えないもの」 尻をずいっ、と内側に向けて、玲子と識は向かい合った。 「識以外のみんなにとって、お姉ちゃんはいなくなったんじゃないの。最初からいなかった。そういうことになったの。お母さんが、お姉ちゃんの話をした? 識がお姉ちゃんの話をして、お母さんが返事をくれた?」 「......それじゃあ、どうしてお話できるの?」 「お願いしたの。私にとって識は特別だから、お話をさせてって」 「誰に?」 「カミサマよ。神様が私とあなたに奇跡を起こしてくれたの」 「神様って、誰?」 玲子は困ったように首をかしげるばかりだった。 「――私は人間が行けない世界に連れて行ってもらったの。私がそこで強くなったら、識や私のこといじめたり、叩いたりした奴に仕返しするよ」 「本当?」 「うん。その時は識も一緒においで。同じイキモノになろう」 二人はぎゅっと、指を絡ませあい力をこめた。 「......迎えにきてくれる?」 「うん。だからそれまでお姉ちゃんのこと、覚えててね」 「忘れるはずないよ、お姉ちゃんこそ――」 識は眼差しに力をこめて、雪明りを集める玲子の目を見詰めた。 「お姉ちゃんは、これ以上変わらないで」 「......うん。約束しよ」
――絶対に、絶対に、ずっと一緒にいよう。 ――約束だよ。 ――絶対だよ。
自分が何か考えていることに次第に気付いてくる。目覚めはいつもそうやって来る。 視界が薄暗い。サヤカが照明を切ったのだと思った。まだ、階段室の一隅で休んでいるつもりだった。起きようとして、指一本動かすのにひどく体力を使うことを妙に思った。 そして次第に何が起きたものか、記憶が蘇る。 天井を見、明るさの滲むほうを見る。壁にカーテンがかかっている。 そっと肘を曲げて、右手を顔の前に持ってきた。それを閉じたり開いたりしてみた。自分のものでない、白い服を着せられていた。 生きている......。 自分がこうしているということは、サヤカも無事なのだろう。 『気がつきましたか』 部屋のどこかからキセリタが話しかけてきた。その姿を目で探したが、視界に入らなかった。すると足もとからまた声がした。 『ここがどこか分かりますか?』 声を出す前に深呼吸をした。懐かしい埃くささがあった。 「分かる」 『長いこと眠っていたんですよ』 教え諭すように言う。すると、さっ、と部屋の色合いが変わった。カーテンを通る光が朱色になっている。向こうの部屋に誰かいるのか。いや。 ここは第一階層の外側だ。外かもしれない。 「キセリタ」 『何でしょう』 「あの向こうは、外か?」 『そうですよ。あれが朝日です。見たことありませんか?』 となると無性にあのカーテンを払いのけたくなる。 硬直した手足を伸ばし、そっと動かしてみる。動きに慣れたら足を出し、床に下ろしてみる。履くものが見当たらず、素足で立ち上がろうとした。 膝に力が入らず、体に布団を絡ませたままベッドから落ちた。 手許にキャスターがあった。それに掴まろうとしたら、キャスターはそのまま滑っていき、壁にぶつかり、へりに置かれた水差しが派手な音を立てて落下した。 それが朱色の光の中で回転し、止まってゆく様を、油染みた床の上で見詰めた。廊下を大股で歩いてくる者があり、ベッドの向こうの板戸が外に向かって開いた。 肩幅がミナシキの倍近くあるような大男が入ってきた。汗と硝煙の臭いがして、顔が紫色になっている。男はミナシキを見つけると、いきなり脇の下に手を入れて、ベッドの上に放り出した。 「何やってんだい、おまえ」 ミナシキが何か言うよりも早く、水差しを拾い上げ、キャスターを元の位置に持ってきた。それから分厚い手を伸ばし、前髪を払いのけて額に触れた。 「おお、よーし、熱は下がったな。世話のやけるニーチャンだぜ。おめぇ、自分が何でここにいるか分かるな?」 再び起き上がって頷く。 「サヤカが――」 「ドえれぇ驚いたぜ、ありゃあ。閉鎖地区抜けて来たんだって?」 「サヤカは――サヤカは無事か?」 顔の幅に比べてかなり小さく見える目を、困ったようにそっと寄せ、あきれ声で言った。 「元気だよ」 詰めていた息を吐くミナシキに、男は更に問いかけた。 「怪我以外は治さないでくれってよ。下手すると祟られて手足ブチブチもげて死んじまうんだって? なあ、どういうことだ?」 「......事情があるんだ」 「んなこたぁ、分かるぜ! おまえなぁ」 ため息をついて言葉を切った。 「まあいいや、話は明るくなって飯食ってからだ。もうジタバタ動くんじゃねえぞ」 小さな目でミナシキを軽く咎めて、ばつが悪くなり、目をそらして答えた。 「カーテンを開けてくれないか......」 「はぁ?」 「朝日が見たかった」 男は目を吊り上げて、息を大きく吸った。 「――なもん、毎日見れるだろうが! とろくさいこと抜かしくさってからに!」 と、ミナシキを叱りつけた。
体調は安定しなかった。昼になる前にまた眠り、繰り返し悪夢を見た。 夢の中でミナシキは、ビルキエの亡骸を回収しようとしている。あの階段室を上り、居住区をさまよう。台車があり、四肢を?がれたジェノーが転がり、少し離れたところで額に穴を開けたビルキエが仰向けで倒れている。うなされる理由はいろいろあった。遺体がどうしても床から持ち上がらなかったり、死体袋を開けたら自分の死体が入っていたり、理性はやめろと叫んでいるのに体が勝手にビルキエを蜂の巣にしたりした。 呼びかけられて目を覚ますと、サヤカが自分の顔を拭きながら覗きこんでいたりした。 目を閉じればまた廃墟の町にいる。ビルキエを抱えて逃げている。後ろからはジェノーが追ってくる。ごとり、ごとりと肩を使って、俺を連れてけと迫ってくる。 追いつかれて覚醒したときには、日が暮れかかっていた。 「よく寝るねぇ」 朝会ったあの男がいて、隣でサヤカが盥を使ってタオルを洗っていた。
粥が出てきた。離乳食のような見た目だが、レーションに慣れた舌には贅沢な味覚だった。 「それで、隣の葉に行きたいと?」 三人の男がいた。一人は医師。朝の男。彼はヨセギと名乗った。そしてヨセギの父親で、町長と名乗る初老の男。彼もまた火薬の臭い。 「ひと月に一度、移民を運ぶ貨車が運行されると聞いてきた。それに乗せていただけないだろうか」 三人が互いに目配せしあう。沈黙が過ぎていく。 「......や、別にいいけどよ。行っても蟲がいるだけだぜ」 「承知している、ただ」 「体治さんと行くんかね?」 医師が口を挟んだ。 サヤカは余計なことを言わなかったようだ。 「治している時間がないんだ。次貨車が出るのは?」 「ちょうど半月後だな。二人で行くのか?」 ミナシキは少し迷い、サヤカを振り向いた。目が合うと、びくりと目の中を光らせ、そむけた 「いや......それは、まだ決めていない」 今度はミナシキから切り出した。 「弾薬を売ってくれないか」 町長の親子が途端に剣呑な目になってミナシキを見詰め、ついで、ヨセギが笑いながら、大仰に肩を竦めた。 「弾薬ぅ? そんなもん――」 「ヨセギ、その顔と手の色は硝煙反応だろう。それに火薬臭がする」 笑顔が消え、ミナシキは真顔の二人を静かに見比べた。町長が腕組みを解き、椅子から身を乗り出した。 「おまえさんの銃、結構使いこまれてたじゃないか。えぇ? あれはどこで手に入れたもんだい」 「それは言えない。もちろん今後、ここで火気を購入したことも決して口外しない」 二人は即答を避けた。 深夜、一人になってから、キセリタと話をした。 「サヤカはお前のことを口外しなかったか?」 『もちろん。それよりさっきの話ですが――』 ミナシキは足もとの、声がするほうに顔を向けた。 『日中、百メートルほど下方の屋外で彼らは射撃訓練を行っていた。武器弾薬が集合していることは間違いないでしょう』 「インカーネイトは知っているのか」 キセリタは少し考えこんだ。 『......少々話しがずれますが、近年の蟲の動向についてインカーネイトはある考察をしました。橋を潜り抜けてくる蟲が極端なまでに減少したことはご存知でしょう』 「話には聞いている」 『蟲全体の動向として、外層付近や下層で小競り合いをしている蟲を残し、連中は撤退を開始しています』 「なんだと」 『これは吉報ではないというのがインカーネイトの答えです。ヒトが試されているのです』 ある考えに思い当たり、ミナシキは布団を折って起き上がった。 「試す......自壊を促しているということか?」 『ご明察』 蟲という、あまりに分かりやすい敵がいるから、人はこんな閉鎖空間でも我慢して生きてゆける。それが姿を消せば一気に様々な不満が噴き出すだろう。 『一方で外の葉の蟲は増加傾向にあります。こちらへ流れこむ難民が増えてきている。第一階層では住環境をめぐるストレスからかなりの圧力が生じています』 「ここに武器が集められているのは――」 『――そういうことの準備、かも知れませんね』 「インカーネイトに報告するか?」 『さぁ? あなたはどうします?』 武器携行権のない市民が武器をかき集めているというなら、本来見過ごせることではない。発覚すれば彼らは確実に死罪になるだろう。 だが――彼らの矛先はきっと最上部の王族に向かう。 ミナシキはそこから排除され、この地で救われた。 「――どうでもいい」 と答えて仰向けに寝転がった。 『レギニータから蟲が消える......』 キセリタは一人で呟いていた。 『......凶悪なのは人間ばかり』 ミナシキはまどろみ、またジェノーに追われる夢を見る。血みどろの肉塊に体当たりされ、噛み付かれ、それを蹴飛ばし振り払い、坂を下りてゆくのだ。
(「レギニータ」05へ続く)
【事務局注】 この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。 このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。 これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「レギニータ-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。
なお、正式タイトルは「レギニータ」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。
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08:57, Thursday, Aug 20, 2009 ¦ 固定リンク
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