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「眠れないんだ」
榎本は呻くようにそう呟いた。 私の高校時代の友人である。数年振りに会った友は、まるで別人のようにやつれ果てていた。 夜、床に付くと間もなく虫の羽音が聞こえるのだという。 「蚊がさ、耳元で『ブゥーン』て言うだろ? ああいうのがずっと」 もう三ヶ月程になるらしい。 最初は部屋の中に蚊がいるのだと思った。殺虫剤を噴霧したり、電子虫除け機器を使ってみたりもした。 だが一向に効き目がない。 その結果、酷い睡眠不足に陥った。当然それは仕事にも影響した。 気を抜くとウトウトしてしまうのだ。 仕方がないので、昼に食事をする代わりに車の中で仮眠を取る事にした。たった一時間でも寝られれば、少なくとも仕事中の居眠りは避けられる。事実、それで何とか一日を凌げていた。
ある日、仮眠から戻って職場に一歩足を踏み入れた時だった。 不意に耳元で羽音がした。思わずビクッと体が引きつる。 「どうかしたんですか? 」 榎本の様子を見ていた女子社員が声を掛けた。 「いや、羽音がしたから」 「え? 」 「蚊が飛んでるな、と思って」 キョロキョロと辺りを見回し、彼女は怪訝そうな顔を向けた。 「羽音なんて聞こえませんけど? 」 そこで初めて、榎本は音が自分にしか聞こえてない事を知った。 その日を境に、昼と言わず夜と言わず、どこにいようが何をしていようがお構いなく羽音が聞こえるようになった。まるでこの身に纏わり付いているかのようで、とうとう榎本は昼の仮眠すら出来なくなった。 そして、気付いた。 音は己の頭の中から聞こえている。 榎本は困惑し、追い詰められていた。自分はおかしくなったのか。このままでは神経が参ってしまう。 堪らず榎本は心療内科の扉を叩いた。 睡眠導入剤と抗精神薬を処方されたが、ただ朦朧とするばかりで大した効果はなく、羽音は止まなかった。そこで医師は別な可能性を考え、脳神経外科の診察を受ける事を勧めた。
そうして、榎本は脳外科医の私の元へやって来た。 MRI検査の結果、右側頭部に腫瘍が見つかった。髄膜腫である。 それが一次聴覚野を圧迫していたのが原因で、羽音のような幻聴が聞こえていたのだろう。幸い良性でもあり、手術で取り除けば症状も改善する筈だ。 原因が判り、榎本はホッとしたようだった。
手術は驚く程スムーズに進み、榎本の腫瘍は綺麗に取り除かれた。手術が終わり、私は何気なく今取り除いた腫瘍に目をやった。 ステンレス皿の上に乗せられた腫瘍は蟷螂の卵のような形をしている。 「……? 」 その卵が僅かに震えたように見えた。見間違いかと目を凝らす。いや、確かに細かく震えている。 そうして震えは次第に激しくなり、まるで何かの生き物のように何度か大きくのた打った。次の瞬間、腫瘍は内側から突き破られるように弾け、中から無数の蚊が飛び出した。 この小さな肉塊の中のどこにこれ程の数の蚊が潜んでいたのか。蚊の群れは照明の下で黒い虫の柱を形成し、ゆらゆらと蠢いている。その小さな虫どもが、全部こちらを見ているような気がした。 目眩を感じて思わず目を瞑る。 「…先生? 」 看護師に声を掛けられ、私は我に返った。手術室に蚊の大群の姿はどこにもなく、弾けた筈の腫瘍は何事もなかったかのように、取り出された時と変わらぬ状態でそこにあった。 スタッフ達の不思議そうな視線の中、狐に摘まれた思いで私はそれを見つめた。
あれから一週間。 榎本の体は順調に回復している。だが、術後麻酔が切れても榎本の意識が戻る事はなかった。どういう訳か、ただ昏々と眠り続けている。 手術は確かに成功した。機能も反応も全て正常なのだ。 それなのに、体のどこを調べても目覚めない理由が見つからない。 私は頭を抱えた。 手術前と術後のMRIの画像を見比べながら、溜息を吐く。眼鏡を外し、両の目頭を指で押さえたその時。
──……ゥン…
耳の中、微かに羽音が聞こえた。
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» 【+2】羽音 [峠の塩入玄米茶屋/2009から] × 発想は良い。全体的に無難に纏めている印象。手術が成功して、不眠の原因だった腫瘍を取り除いた途端、榎本は昏々と眠り続けるのだが、まるで腫瘍が不眠そのものの象徴のようで面白い。その後、榎本がどうなったのかに言及せず、読者に想像の余地を与えているのも良い。た ... 続きを読む
受信: 20:39, Thursday, Sep 24, 2009
■講評
丁寧に書かれていて良かったと思います。 医師を通じて広がっていくのもいい。
主人公の身に起きた出来事が丁寧に書かれているんだけど、主人公は意識を失ってしまう。 医師は怪異を目にするんだけど、それは幻覚かと思うと感染してる。 そのあたりをもう一度、整理してから丁寧に広げていくと、一段とおもしろくなったと思いますね。
【アイデア】+1、【描写力】+1、【構成力】0、【恐怖度】0 |
名前: ユージーン ¦ 21:45, Thursday, Sep 03, 2009 ×
恐怖度0 文章力0 構成力0 アイデア1 よく纏められていると思います。 ただ、展開的には意外性がなかったかなあ。 羽音の着眼点はよかったのですが。 |
名前: 妖面美夜 ¦ 17:11, Friday, Sep 04, 2009 ×
うん。解り易い話でした。 場面が語り手に移った時点で、「ああ、羽音聞こえるようになるだろうなぁ」と想像出来てしまったので、これを良い意味で裏切るようなオチだと完璧だったかなぁと思います。
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名前: PM ¦ 20:31, Tuesday, Sep 15, 2009 ×
全体として隙がなくまとまっている印象です。 最後まで読ませる文章力は素晴らしく、参考にしたいと思いました。 その分、予想通りの展開であっさり終わってしまったのが少し残念です。 蚊が「大群」だったことを活かせば、オチをもう少し捻れたかと思います。
文章力+2 展開-1 |
名前: もりもっつあん ¦ 08:00, Wednesday, Sep 16, 2009 ×
・アイディア+1 蚊の羽音を題材に選んだことが良いと思う。あれは確かに嫌だ。時々、耳の奥に入ってくるような錯覚もする。そこら辺の共感も含めて。 ・描写と構成−1 長いのか短いのか、中途半端に思う。前半に榎本の様子が詳しく長く描写されているので、長い話として講評する。 腫瘍摘出後の展開が少し投げっぱなしかな、と思う。蟷螂の卵のような腫瘍についても、どんな怖い存在なのか、どんな怖いことが起きるのか、もっと書き進めて欲しかった。 細かいこと、「「…先生? 」」の前は一行空けた方が、時間経過があった気がして話の進行が分かり易いような気がする。 ・怖さ±0 嫌、の域を出ていないと思う。 ・買っても後悔しない魅力−1 投げっぱなし(と私には見える)な話には、好意を持てないので。 |
名前: わごん ¦ 22:24, Sunday, Sep 20, 2009 ×
冒頭からの流れがきれいで、すんなり作品世界に入り込めました。 榎本が目覚めない理由が明記されていないのが、妄想を掻き立てて面白かったです。このまま眠り続けるのか、それとも「私」に羽音が聞こえ出したことで何か展開があるのか、いろいろと想像させていただきました。
*文章+1 *描写+1 *恐怖−1 |
名前: げんき ¦ 00:00, Tuesday, Sep 22, 2009 ×
引くべきところを引き、書くべきところを書いている為、読者の想像力を存分に刺激してきます。 ショートのお手本とでも言うべき作品でした。
発想・1 構成・1 文章・1 恐怖・0 |
名前: 三面怪人 ¦ 17:22, Friday, Sep 25, 2009 ×
発想0 文章+1 構成0 恐怖0 読みやすくていいと思います。 もっと先があるような感じ。 スムーズに違和感なく読めてしまうのが、かえって印象に残りにくいかと思います。 |
名前: 戯作三昧 ¦ 03:28, Saturday, Sep 26, 2009 ×
奇怪な現象が広がっていくのが、薄気味悪く描けていると思います。 ただ、やっぱり展開的にはベタな感じで、最期のオチなどにもう一工夫を期待してしまいます。
アイデア 0 文章 0 構成 −1 恐怖度 1
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名前: 鶴の子 ¦ 04:43, Sunday, Sep 27, 2009 ×
文章がこなれていて、よく出来た作品です。 題名が羽音となっているので、怪集が虫モチーフでもありますし、最後まで読まなくても中盤に来るまでには推測が当たりやすい内容ではあります。 一見するとトンデモ話の内容を描写力で持ちこたえさせ、不自然に見えないように細部もしっかり書かれていました。
しかしながら、ここまで書かれたのであれば、とことん医療系ホラーとして長さを取って仕上がっていれば、怪集でもぶっちぎりの存在になれていたのではないかと思うと、破綻もなければ冒険もない、その定型さが何とも残念でありました。
「羽音」の周辺の作品群が、定型でありながらも違う切り口を見いだそうとしたり、読者を愉しませようとアイデアを凝らしている様子と比べますと、「羽音」のように既視感のあるアイデアを文章力だけで底上げした作品で勝負を仕掛けるのは少々宜しくないのではないかなと思います。
アイデア・−1、描写力・1 |
名前: 気まぐれルート66 ¦ 14:40, Tuesday, Sep 29, 2009 ×
面白かったです。 ある程度約束された筋運びではあったものの、すんなりとした筆運びと、くどい演出にならない登場人物達の役回りに好感をもてました。 総てが謎に始まり、原因不明のまま蔓延していく。 いいですね。 |
名前: 籠 三蔵 ¦ 20:40, Thursday, Oct 01, 2009 ×
無駄の無い文章で読みやすかったです。 これだけの文字数でキッチリ起承転結がついているのは、かなり文章・構成力が高いのだと思います。 惜しむらくは、結末にもう一つ意外性が無かったことです。 小粒ではありますが、作品の完成度自体は高いと思います。 |
名前: 水本しげろ ¦ 21:11, Thursday, Oct 01, 2009 ×
なんで蚊の腫瘍が頭の中にあったか、ってところにポイントを絞って書いたら良かったかもしれません。榎本個人の出生や人生にまつわる因果なのか? あるいは新手の病気か? うまくここに光を当てたらもう少し、厚みが出ると思います。 あと、医師以外の看護師たちは被害に遭わなかったのかな? 無差別に人に襲い掛かる怪異(病?)なら、そっちの方が自然だと思います。 |
名前: あおいさかな ¦ 01:03, Friday, Oct 02, 2009 ×
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QRコードの中に 潜む実話怪談

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