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憧れて就いた仕事に今日も体力を全て奪われ阪急電鉄に乗り込む。つり革に歪んだ形でぶら下がると気力も尽きていることを実感する。非常勤で5年頑張った。念願の正規職員になって3年が過ぎ、気付けば三十路に踏み込んでいる。 ため息もでない。何年も非常勤で結局は採用試験に合格せず諦める人もたくさんいる中で、自分は正規として望めば一生働ける仕事を手にしたのだ。あとはこのまま行くだけだ・・・固定観念にとらわれている自分を自覚していないわけではないが、今更別の生き方など選ぶ勇気はまるでない。これでいい。と何の気概もなく宮田佳美は思った。 ふと、バックの中で携帯がメールの着信を知らせ点滅しているのが目に入った。どうせいつものハンバーガーチェーンの営業メールか、実家からの下らない用事に違いないと過剰な自己防衛を働かせ、落胆することのないよう殻を被り画面を開く。二件あったメールのうち一件は予想通りハンバーガーチェーンのものだったが、もう一件は地元の幼馴染からのものだった。
久しぶり。元気にしてる?今度、高校の同窓会があるらしいんだけど、もし来れたらと思って連絡しました。
高校の同窓会・・・卒業して数年は開催されていたがそれ以来一度もなかった。突然どうしたんだろう。と軽い猜疑心が頭をもたげたが、結局は行ってみたいという気持ちになった。結婚、出産、育児と人生を順調に進んでいる友人は段階ごとにそれなりのイベントもあるようだが、卒業して就職、その後は毎日泥のようになるまで働く自分のような女はイベントとは縁遠い。 社会に貢献しているのは自分の方であるはずなのに、のうのうと生きる彼女達の方が何故堂々と図々しくしているのだ?と、暗い気持ちになるのが嫌で、女の子は学歴でも仕事でもなく結婚して子育てをするもの。というのが常識となっている郷里に帰省するのは必要最小限に止めていたし、地元の友人とも疎遠になっていたが、何のイベントもない毎日を送る身としては同窓会は魅力的に思えたのだ。 日時を確認するメールを返信し、降車駅までの残り時間はじっと目を閉じていた。
「佳美ちゃん!」 結婚式の二次会と言っても問題がなさそうな華やかな装いの群れの中から、ワントーン大人しい出で立ちの女性がすっと抜け出てきた。 久しぶりだね、結婚式に来てもらって以来だね。と、微笑みかける幼馴染に、やや大げさに会いたかったよー。と応じる。彼女の胸には自分が小さい頃から親しんだのとは違う苗字が燦然と記されていて、自分の名札が少し嫌になった。 「学年全体って聞いたけど、少なくない?」 「全員にお知らせの葉書を出した訳じゃなくて、発起人が知っている人に連絡して、連絡を受けた人がまた連絡して・・ってふうだったみたい。結局こんなもんだね。」 漠然とその連絡網の上流に彼女は属しており、自分は末端に連なる一人ではないかと思い落ち込みかけたが、声がかからないよりマシかと後ろ向きに踏みとどまる。 会場を見渡すと女性陣は三十路を過ぎたとは言え、自分を正しく評価し、相応しいものを手に入れることができる分、充分魅力的に映る。予想していたよりも名札に記された名前が変わっていない子が多く、佳美は安堵した。むしろ旧姓のままだからこそ、皆、ここぞとばかりに装っているのかもしれない。 「それにしても玲子は変わらないね。中学の頃のままじゃない。」 「佳美ちゃん、ひどい!みんな高校の頃から変わらないねー。なんて言うけど、中学からなんて・・・だから幼馴染は嫌なの。」 みんな大人になって綺麗になっているのに、私だけ子供なんて酷い。と軽く睨む真似をする。玲子は実際、面差しも体形もまったく崩れた所がなかった。少し流行とはズレた露出の少ない服装でいるが、隠された部分も変わらず白く滑らかなのだろう。 「綺麗になってないわけじゃない。昔からずっと綺麗なのよ・・」 呟いた声は開会の合図と歓声によってかき消された。
目を覚ますと、微かな頭痛と喉の渇きを覚えた。部屋の明度、天井、いつもと違う・・。 (そうか、実家だっけ) 体を起こす。昨夜は二次会、三次会と久しぶりに飲んだ。誰かにどうやってか実家まで連れて来てもらい、かつての自分の部屋まで何とかたどり着いて眠ってしまったようだ。 階下に人の気配はない、時計を見ると昼近かった。 汗っぽくアルコールとタバコの匂いがする身体をシャワーで洗い流す。背中、臍の下あたり・・・かつてはなかった部分にうっすらと確実に脂肪がつき始めているのを確認し、ため息をつく。 (玲子はきっとこんな贅肉もないんだろうなあ・・・) 昨夜の楽しい気持ちを冷やす感情を振り払おうとして、ゴシゴシと強くバスタオルを使い、携帯をチェックする。さっぱりして気が緩んだのか、昨夜アドレスを交換した誰かから来ていないかと期待してしまう。一件のメールがあり即座に開く。
昨日は楽しかったね。佳美ちゃんに会えて嬉しかったよ。加藤くんも意外だったね。
遅くなると主人に悪いといって一次会だけでさっさと帰った玲子からだった。 (加藤くん?加藤くんってあの加藤くん?) 加藤彰浩は佳美たちと同じ弓道部で3年間を過ごした。ほっそりとした容姿で優しい物腰、成績も優秀とあって後輩からは人気があった。玲子にかかると、私は優男はちょっとなあ・・・。と貶められていたが、佳美はそうだよね、ちょっとなよなよしてるよね。と同調しつつも密かに憧れていたのだった。 昨日も会場に彼の姿を認め、自分でも驚くほどときめいたのだが、結局一言も言葉を交わすことなく二次会からバラバラになってしまったのだった。
男の子はあまり変わってなかったね。加藤くんが意外って?
玲子からはすぐに返信があった。
加藤くんは折角お医者さんになったのに、結婚どころか彼女もいないってビックリだよね。
軽い衝撃を覚えた。佳美ももう高校生ではないのだから話しかけようと思えばできた。それをしなかったのは彼の指にリングを認めるのが怖かったからだ。きっともう結婚してるんだろう。と思うことと、それを見せつけられるのでは次元が違うのだ。事実は変わらなくても。 しかし実際、彼は独身で彼女もいないと言うではないか。それをあの場で明らかにするという事は、ふさわしい出会いを求めていたということで・・自分はなんて迂闊だったんだろう。いつの間にか佳美は彼への想いにとりつかれていた。
実は私、加藤くんのこと好きだったんだ。彼女いないってホントかなあ。
そうだったの!?知らなくってごめんね。でもあの場で言ってたんだからホントじゃない?そんな嘘つくような年齢じゃないし・・。
そうかあ・・。しまったなあ、昨日、話したかった。
向こうも佳美ちゃんのことはきっと覚えてるからメールしたら?私アドレス誰かに聞いてみるよ。
ホント?お願いします。是非知りたいです。
待つこと数時間、玲子からのメールを頼りに彼にメールを送った。何度も何度も何度も書き直した佳美のメールにはたった一行の返信が送られた。
宮田さん、ひさしぶり。僕、彼女いるので無理です。ゴメンナサイ。
ショックが脳を通りすぎ心に到達する前に玲子に報告のメールを送った。 彼女いないって言ってたのに酷いね。私も真に受けてごめんね。という謝罪のメールを見て、佳美は何が悲しいのか分からず、でもひどく悲しかったのでスイッチが切れたように眠りに落ちた。
(そんな夢みたいなことあるわけないよね・・) (同窓会で憧れの人に再会して、実は相思相愛でそのままなんてこと・・) (きっと加藤くんには綺麗な彼女が・・・) (・・・私は綺麗じゃないから、今も独りなんだ・・) (玲子はとっくに結婚してて、加藤くんとも話をして・・・) (・・・加藤くんは、ホントは玲子と付き合いたくて、あんなことを・・) (そんなわけないか・・でも玲子は綺麗だから・・・) (玲子はホントに綺麗、顔も胸も臍まで人とは違う・・・) (あれ?私、玲子の裸なんてどうして知って・・?)
枯れた笹の葉がしっとり積もっているから足音がしない。一歩踏み出すごとに柔らかく、反発がないから心許ない。いつも走り回っている地面とは違う世界に踏み入れてしまったということを感覚を通じて自覚し始める。引き返そうかと思いが過ぎるが、何も得ないままで引き返すのは癪だから、まだちょっと登ることにする。 竹林だから日が暮れかかっていても見通しはいい。怖くない。と言い聞かせる。玲子は休みがちで今日も学校に来なかった。給食のパンを届けるのはいつも私の役目。病気で可哀想だから面倒だなんて思っちゃダメ。でも玲子の家はいつも誰もいなくて、ちょっとしたご褒美が当てにできるわけじゃなくて、やっぱり面倒臭い。 損な役だと思いつつ、いつも通り鍵のかかっていない玄関の引き戸を勝手に開け、上がった所にパンと明日の予定を置いた。どうせ誰もいないから声はかけなかった。 振り返って出て行こうとすると、すうっと風が動いた。家の中に目を戻すと裏口が開閉して誰かが出て行った気配がある。玲子ちゃんだろうか。 学校を休んでも、いつも家にはいない。理由を聞くと病院にいたと言うから、家で寝ていれば治るような病気しかしない自分とは違うんだと思っていたが、疑念はあった。 寝てなくていいのかしら。と思うと無性に腹が立ってきた。今までのも全部ズル休みなの?そんなの許せない!証拠をつかんで文句を言ってやりたいという衝動に駆られ、犬走りを抜けて裏口の方に回った。誰の姿もないが、気配が残っている。 どうやら何者かが、母屋の裏口を出て裏山へと続く山道を登っていったようだった。 玲子ちゃんの家の裏にある裏山のおかげでこの集落は台風にも冬の寒風にも直接さらされることがなく、他の土地よりも少しだが確実に豊かな実りがもたらされた。 ほとんどの世帯がサラリーマンとなってしまった今でも台風の被害が少ないとして感謝され続けている。ただし、この裏山は全て玲子ちゃんの家のものであり、子供たちは大人から破る気にもならないくらい徹底して立ち入り禁止を言い渡されていたのだった。 躊躇したが、玲子ちゃんに会いに来たのだから、入ってもいい筈だ。と理屈をつけ、初めてその裏山に踏み込んだ。やはり人の姿は見えないが、人の通る道が自然にできており、その山道をなぞることにした。 一体どんな仕掛けか分からないが、小さい裏山だと思っていたのに登っても登っても登りきれず汗が滲んできた。いよいよ引き返そうかという頃、前方に小屋が見えた。 雨露がある程度凌げればいいという簡素なトタンでできた小屋だ。出入りの扉の他に窓が二つ。途端に我に返り、立ち入りを禁止されている場所に入り込んでしまったことを思い出した。扉を叩くわけにはいかない。 窓は一方は高い位置で換気のためか半分開放されていた。もう一方は自分の身長でも覗けそうな高さにある。 どうしよう・・・。今なら安全に引き返せる。玲子ちゃん家の裏山にこのような小屋があるという発見はしたのだし、充分な収穫ではないだろうか。気付けば辺りも随分暗くなってきていた。 やっぱり引き返そう。踵を返して下り始めた佳美は足を止めた。 (何・・?この匂い?) 喩えるなら熟れ過ぎた果物のような、でも甘いというよりはもっと・・・とにかく濃厚で複雑な香りだ。間違いなくあの小屋から匂ってきている。 (さっきまでは匂ってなかったよね・・・?) 匂いはどんどんはっきりしてくる。もしかしたら玲子ちゃんの家はこの小屋で食事をするんだろうか。ということに思い至り、徐々にそれが確信に変わっていった。 そうなると確かめずにはいられないのが人間だ。 簡単に覗けると思った窓は近づくと思いの他高く、窓枠の下に手をかけて支え目いっぱい背伸びしなければならなかったが、なんとか室内の様子を見渡すことができた。 予想に反して食事の風景はなかった。ひとつだけ電球がぶら下がり、部屋の中心に寝台が置かれていた。そこには玲子ちゃんが横たわっていて、何も身につけていなかった。
(玲子ちゃんは全身なにか濡れてて、ぬるぬると光って・・・)
ひゅうっと息を吸い込んだきり目が離せなかった。寝台の傍らには男が一人いた。子供の目から見たら大人の男の人だったので年齢などは分からない。男は丁寧に丁寧に髪、顔と拭き清めていた。玲子ちゃんが目を覚ます気配はない。玲子ちゃんの肩、そして膨らみ始めた胸、そして腹、腰と全身を拭われる間のどこで自分が逃げ出したのか覚えていない。 ただ見てはいけないものを見てしまったと思い、ひたすら記憶にふたをして忘却の彼方に流れて行ってくれるように祈って過ごした一時期が確かにあったのだ。
ここはやはり枯れた笹の葉がしっとり積もっているから足音がしなくて、一歩踏み出すごとに柔らかく、反発がないから心許ない場所だ。佳美は大阪に帰る予定を数時間遅らせることにした。竹林だから見通しはいい。 いっそ見つからなければよいと思ったあの小屋は、やはり記憶の通りそこにあった。佳美は眩暈を覚えたが、迷わず小屋の扉を開けた。 誰もいない・・・。 土間になっており簡素な室内だった。寝台が一つあるだけだ。窓から入った光は細かな浮遊する粒子に当たりチンダル現象で軌跡が見える。 注意深く見回したが、納屋と思えなくもない光景に佳美の勢いは急に削がれていった。自分は何を考えてこんなことをしているのだろう・・ここには何もない。落胆して出て行こうとすると、 「佳美さん?」 声をかけられた。ぎょっとして振り返るといつの間にか男が立っている。 「・・・いつの間に」 男が黙って指を指す方を見ると部屋の片隅に地下に続いているらしい階段が見えた。 「来るかもしれないと玲子が言っていたよ・・佳美さんだね?」 黙って頷く。 「そうか・・・どうしてここに?」 「・・・玲子の秘密を・・」 知りたくて?暴きたくて?私は何をしにここへ・・・? 「私、玲子みたいになりたい。」 口に出して言うと、自分がずっと昔からそれだけを願ってきたように思えた。 「玲子みたいに綺麗になりたい。ずっとずっと綺麗な玲子・・・どうして玲子だけが愛されるの?」 惨めな涙が流れる。男のしなやかな指が拭っても止まる気配はない。 「私だって・・。」 「君は充分綺麗だと思うけど。それ以上望むのは贅沢ってものだよ」 「・・・それ以上って何よ!私より玲子のほうがずっとずっと綺麗ってことでしょう!私は玲子以下だって言ってるじゃない!」 男はしばらく閉口したが、佳美がまったく引き下がる気配がないので嘆息して口を開いた。 「そりゃあね・・玲子は特別だから。比べてしまうとね・・・」 「!・・・」 「特別っていうのは、僕は・・・玲子の兄であり父でもあるんだ。分かる?だから僕にとって玲子が君より特別でも仕方ない。君が玲子より容姿が劣るとか、そういう問題じゃないから。」 兄でもあり父でもある・・・?それはつまり・・?佳美は玲子の母親を思い出そうとしたが無駄だった。 「僕らの母親も美しい人だったよ。僕は心から愛してた。でもダメだね、弱い人でね。玲子を身ごもってから心が壊れて、産んでからは身体も壊れて、亡くなってしまったよ。美しいだけじゃダメなんだ。いつまでも一緒にいてくれなくては・・」 佳美は玲子の透明な笑顔を思い出していた。 「僕は玲子が母より美しいことに気付いて心底嬉しかったよ。再び愛するものを手に入れたと思って感謝した。でもやはり寿命があるよね、いつかは死んでしまうし、生きていても老いてしまう・・。だから羽化丸を使うことにしたんだ」 羽化丸は古くから土地を守る古い血の家で代々受け継がれる丸薬で、どうしようもなく地脈が乱れた時に服用し、服用者が蛹となり羽化することで、さらに強い能力を持ち地脈を安定させ土地を守るのだと言う。 「信じられないかもしれないけど、そうでもなければこんな国はすぐ地震で滅茶苦茶になってしまうよ。僕たちはこの土地を離れられない。それならせめて愛するものといつまでも一緒にいたいじゃないか。」 「つまり、あなたは羽化丸を玲子に使っているのね?」 佳美は確信をもって尋ねた。この玲子の兄でもあり父でもあるという男は、定期的に玲子に羽化丸を与え病気があれば治癒させ、さらに若く美しく生まれ変わらせているのだ。 それなら納得がいく。男でなくても一目見たら触れたくなる、一度触れたら離せなくなるあの魅力は既にヒトのものではない。佳美は恐怖や嫌悪でなく激しい羨望を覚えた。 「私も玲子みたいになりたい。」 どこか遠くを見ていた男の視線が佳美にようやく焦点を結ぶ。 「君に羽化丸をあげるわけにはいかない。と言ったら?」 「その時は、玲子を殺すわ。死んでしまったらもう羽化もできないわよね。」 黙った男に佳美はたたみ掛ける。 「もし死んでも大丈夫なら、母親は今でも生きてる筈でしょう。」 「・・君のそんな強さに玲子は憧れたのかもな。あれは君を信用しているから、君には殺されるかもしれない。そして、僕が君を殺せば玲子はまともじゃいられなくなるだろう。」 あれは母親に似て弱い所があるからな。と父親のような表情をしたのでつい目を逸らす。視線を戻すと男は懐から小さな袋を取り出し、佳美の手の平につややかな黒い丸薬を二粒とんとんと出した。 「それが羽化丸だ。すこし若返ったり身体の不調を正すくらいなら一粒だ。二粒飲むと・・・生まれ変わる。代わりに僕らには二度と干渉しないでくれ。」 「いいわ。」 言うなり、佳美は一気に飲み込んだ。迷いはなかった。ちょっとでも迷ってしまったら絶対に決心できない、生まれ変われないと分かっていた。全てを振り払うために高らかに叫ぶ。 「これでいいのね!」 「・・・驚いたな。一粒で充分じゃないか?君は生まれ変わらなければならないほど・・」 「少しくらい若返ったりしても意味がない!私は玲子みたいになりたいのよ!」 吼える。男はみんな自分に冷たくなんてできなくなる。縋られて傅かれて、やっと孤独じゃなくなる。 くらっとした。興奮のせいじゃない、その証拠に無抵抗に後ろ向きに崩れてしまう。手をついたり身をよじったりする動作が出ない。疑問符が渦巻いて、為すすべもなく全身が地面にぐしゃりと落ちる。 あっ!とか、ひっ!とか悲鳴をあげたつもりが声にならない。意識が加速度的に欠けていく。男が語り始める、しかし意識がもたないであろうことがはっきり分かる。早く・・早く・・・何故・・何が・・・?
「・・羽化するには、蛹にならなければならない。蝶がイメージしやすいかな。蝶の幼虫は芋虫だ。芋虫に羽が生えた所で蝶にはならない。」 脳のどこかで乾いた羽を持つ瑞々しい芋虫のグロテスクなイメージが浮かんだ。もうそれが自分の脳内なのかはっきりしない。 「君は蛹の中では幼虫に羽が出来て、同時に胴体が萎んで蝶の形になると思っているか?そうなら、それは誤解だ。それは変態であって羽化ではない。おたまじゃくしがカエルになるように、生活を営みながら徐々に変化すればよいのであって蛹になる必要はないじゃないか。」 幼虫と蝶は似ても似つかない。男は冷酷に宣言する。だから蛹化する必要があるのだと。 「蛹の中で幼虫は完全に溶解するのだよ。どろどろのタンパクの海になる。幼虫だったものは原料に過ぎない。その液体が流動して蝶を形作り・・・やがて蝶として羽化するんだ。」 その言葉が示す自分の運命について、もはや佳美は考えることができない。男の言葉を聞くだけだ。手指や足先の骨肉はもはや完全に半透明になり流動しており、その流れが身体の深部に向かってどんどん侵食しているが痛みはない。 むしろ食事を完全に絶ちじっと動かない終齢幼虫の恍惚を感じていた。 「羽化丸はヒトを羽化させることができる。ただし無条件というわけじゃない、まず男には使えない。何故かは知らないが男は蛹化してから羽化する前に息絶えてしまう。」 生命力が足りないのかもしれないな、とふっと息をつく。 「・・・女性は羽化するよ。ただ・・・再びヒトに形作る能力があるのは、僕ら古い一族に連なるものだけだ。」 佳美だった皮にくるまれたうす桃色のゲルが反論するようにぶるぶると震えた。 「そんなに例があるわけじゃないが・・・普通の人間はどうやら羽虫になることが多いらしい。正確に言えば無数の羽虫、羽化する前の君に匹敵する群生体になる。人間に戻りたいという気持ちは強いようでね。羽虫たちは人血をひたすら求める。でも無駄なんだ。いくら人血をすすっても羽虫は羽虫のままで、やがて寿命が尽きる。可哀想に。」 既にヒトのかたちを失い内部の流動が激しくなりつつあるぶよぶよした塊に、男は淡々と語りかける。 「そんなふうになっても仕方ないだろう?もうはじけて地面に全部吸われてしまえよ。」 ・・・・! 逃げ出そうとするスライムの中心を容赦なく男の踵が捉える。何度も何度も。 ・・・!・・・!! 弾力のある外膜は突然の暴力を何度か受け流すことができたが、やがてぷつっと孔が開いた。ぴゅうっぴゅうっと佳美がこぼれていく。 「これで、迷惑な蟲が出ることもないな。」 男はどっかと寝台に腰掛け、沁み出していく佳美を見やった。 すると遠くからぴちゃん、ぽちゃんという音が響いてきた。ぱしゃん!と一際大きい音の後、ひた・・ひた・・と湿った音がどんどん近づいて来て、男はゆっくりと立ち上がる。 「兄さん・・」 地下からゆっくりと玲子が現れた。いつか佳美が見たようにぬらぬらと全身を光らせて。 「・・佳美!?まさか、兄さん!ああ・・」 「無駄だよ、玲子。もう佳美は終わりだよ。」 いつものように泣き崩れるだろうと支えようと差し出した腕を強く振り払われ、男はじんとした痛みに戸惑う。 「終わらせないわ!」 玲子は獣じみた強さで自らの小指の付け根に噛み付いた。躊躇なく力を込める。ぼきぼき、ぶちぶちという感触と共に訪れる激痛が一層力を与えてくれる。 「ああああああっ!」 喉の奥から絶叫を迸らせながら、もう一方の手でしつこく残った表皮と腱のつながりを引きちぎった。 (ずっと仲良しだよ。) 幼い頃、無邪気にからませた指が呪わしい血にまみれて自分の手の中にある。 「佳美!」 玲子が駆け寄ろうとするより早く佳美だった塊はどぱっと展開し、玲子の上半身を完全に飲み込み下半身にも触手を伸ばす。男が無表情に激痛と酸欠で失神した玲子の腰を掴み、引きずり戻す。 佳美だった塊の中に残された玲子の小指は、肉も骨も皮もあっという間に分解され拡がった。途端に蠕動運動は収まり、静かな呼吸のリズムで内部のゾルが安定した。
「玲子、玲子。」 男がぴたぴたと頬を叩くと、うっすらと目が開いた。 「・・・佳美は!?」 身体を起こそうとして激痛に顔を顰める。 「安定したよ。ひとつの個体になるだろうね。」 「よかった・・・。」 「玲子の血で誘導されるからひとつの個体として羽化するのは間違いないけど・・」 佳美は希望通り「玲子」に生まれ変わる。ただし脳を含め肉体も全て「玲子」として造りかえられて。 「これでいいのよ。佳美は私になるのが夢だったんだから。」 「僕たちの血は強すぎるから、そんなに体はもたないよ。」 「つかの間の夢でも・・いいじゃない。佳美は外に出て行けるんだから、いい方法を見つけるかもしれない。」 玲子の瞳の中に、永遠に閉じ込められる孤独と自分を置いていった佳美への嫉妬から生まれた狂気を見て男はぞっとしたが、すぐに微笑みを施され陶然となった。 「私はここにいなくてはいけないのよね・・」 「そうだよ。ずっと一緒に。」 「兄さん・・。」 不意に血の匂いに気付く。手当てしてやらないと。と思うが、濡れた瞳と半開きの唇の中に潜む湿った柔らかさの誘惑に抗えずに、吸い付く。 玲子は目を細め、舌下に忍ばせていた「羽化丸」を夢中になってしゃぶりつく男の口内に押し出した。
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» 【−4】夢 [もけもけ もののけから] × う〜ん。長かった。正直、削れる所は多かったように思います。ポイントも分散されているように思えますし…。因果元を纏めたというの�... ... 続きを読む
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受信: 21:18, Tuesday, Sep 15, 2009
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受信: 22:13, Friday, Sep 25, 2009
■講評
因果元を見事に結んでいて、面白かったです。 メールのくだりや過去回想、羽化丸の解説はもう纏められたと思うし、逆に佳美の美への執着、玲子への憧れの暴走はいささか突然すぎるように感じましたが、人体が蕩ける恐怖と絶望、そして消滅は良く描かれていると思います。上手いオチも推薦要因です。
アイデア+1 描写+1 構成-1 オチ+1 |
名前: もりもっつあん ¦ 23:39, Wednesday, Sep 16, 2009 ×
多少文章が長い気もしますが、佳美と玲子の関係が詳しく描画されており、分かりやすい内容でよかったと思います。 蛹化という普段は何も感じないものがこの作品内ではグロテスクに描画されていて恐怖感が出ていたと思います。
アイデア +1 気持ち悪さ +1 文書の長さ -1 分かりやすさ +1 |
名前: ktbk ¦ 10:47, Saturday, Sep 19, 2009 ×
なんだか妙に文章が詰まっていて、かつ長さもある事からか、全体的に解り辛い印象でした。 描写や展開は良いと思うので、もう少し、“読者に読ませる”と言う点を意識してもらえれば、高得点だったかなぁと思います。
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名前: PM ¦ 18:23, Monday, Sep 21, 2009 ×
・アイディア±0 羽化の成否の所は面白いと思ったが、古い血の家、佳美&玲子の感情など、他の部分は全てライトノベル的なありきたりに感じた。 ・描写と構成−1 やたら悪文や不親切が目立つように思う。「、」や文節の区切りが足らない部分も多すぎると思う。同じ文章でも、適度に分けて貰えると、頭に入ってきやすい。 「社会に貢献しているのは〜〜同窓会は魅力的に思えたのだ。」ご自分で読み返してみて、何とも思わないだろうか。 「玲子にかかると、〜〜密かに憧れていたのだった。」は『〜貶められていた。しかし佳美は〜』とか。一、二箇所なら気にしないことだが、読んでいてそこばかり気になるほど、多いと思う。 「枯れた笹の葉がしっとり〜」から、過去の回想なのか次の場面に移ったのか、読んでいる人間は、すぐに分からなくて戸惑う。 「ここはやはり枯れた笹の葉がしっとり〜」からも、上記ほど酷くはないが、同様。光景をリンクさせる前に、一言二言添えることがあると思う。 描写の内容や構成(少し無駄な場面が多いようにも感じる)は普通の域だと思うのに、勿体ない。 ・怖さ±0 佳美が男に騙されるくだり、玲子の狂気や結末など、上手く書けば怖くなりそうなのだが、現状ではあまり怖くない。長い前振りがあまり絡んでこないのも、だれた感じになっているかと思う。 ・買っても後悔しない魅力−1 長くて、話や文章は普通かそれ以下の水準に思えるので。 |
名前: わごん ¦ 06:03, Tuesday, Sep 22, 2009 ×
三十路過ぎという、女性としては心も体も不安定になりやすい年齢の佳美の焦燥感やコンプレックスを巧く描いていると思いました。玲子が加藤くんのメアドを訊いてあげると言い出した後、それまで砕けた調子だった文を打っていた佳美が急に敬語で打っているのが、なんともリアルで可愛らしい演出で心に残りました。
ラストの玲子の行動がまったくの予想外で、ビクッとさせられてよかったです。
*佳美のキャラクター+1 *ラストの〆方+1
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名前: げんき ¦ 23:53, Tuesday, Sep 22, 2009 ×
恐怖度0 文章力0 構成力0 アイデア1 前半の出だしはよかったのですが、後半になってから玲子と佳美と男の関係がぐちゃぐちゃになって整理して読み辛かったです。もう少し削るところを削ればよかったのでは?と思います。 |
名前: 妖面美夜 ¦ 00:43, Thursday, Sep 24, 2009 ×
発想ー1 文章ー1 構成0 恐怖0 裏山の小屋を見つけたあたりまでは良かったと思います。 三十路を過ぎ、先の人生に対してあきらめと希望の入り混じった佳美の気持ちをうまく表現できていると思います。 しかし、羽化丸で云々、というのはどうもそれまでの話の雰囲気と合わなくて、違和感を覚えました。
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名前: 戯作三昧 ¦ 03:46, Thursday, Sep 24, 2009 ×
恐怖 2 雰囲気 1 幼虫が蛹を経て蝶になる、という自然の何気ない流れを人間に応用するだけで、ここまで気持ち悪くて恐ろしい話になるのか、と、読んでみてぞっとしました。オチもまた、ぞっとさせるものを持っていると思います。 |
名前: 白長須鯨 ¦ 17:28, Thursday, Sep 24, 2009 ×
なるほど。なかなかよく考えてありますね。 ちゃんとクライマックスから組立ててある。
となると問題は書き出しです。 書き出しからひとつひとつ説明していると、物語が始まる頃には眠くなってしまう。 いかに書き出しでつかむのかってのが難しいんですよね。 そこが決まると、全体にグッと引き締まると思います。
【アイデア】+1、【描写力】+1、【構成力】0、【恐怖度】0 |
名前: ユージーン ¦ 22:27, Thursday, Sep 24, 2009 ×
>バックの中で携帯がメールの着信を知らせ点滅しているのが目に入った。 これは『携帯が点滅した。メールだ。』で済みます。
>自分を自覚していないわけではないが、 そもそも、自覚するのは自分です。 自分を、は不要です。
>枯れた笹の葉がしっとり積もっているから足音がしない。 一歩踏み出すごとに柔らかく、反発がないから心許ない。
柔らかいから反発がないのは当たり前です。
>のうのうと生きる彼女達の方が何故堂々と図々しくしているのだ?
これもしつこい文章になっています。
全般を通じ、無駄が多い文章だと思います。削るか、言い換えるかしないと、読者は読み疲れてしまいます。 同じ意味合いの言葉に、更に不要な修飾語が加えられている文章は、シンプルで力強いそれの前には霞んでしまいます。
発想・0 構成・0 文章・-1 恐怖・0 |
名前: 三面怪人 ¦ 12:34, Monday, Sep 28, 2009 ×
羽化と蛹の話、特になりそこねて羽虫になるあたりが面白かったのですが、登場人物がどこか平板で感情移入しにくいのと文章の独特のくどさですんなり話に入り込めませんでした。
アイデア 1 文章 −1 構成 −1 恐怖度 0
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名前: 鶴の子 ¦ 19:34, Monday, Sep 28, 2009 ×
少し前にヒットしたAround40風の話か、または7月24日通りタイプになるのかと思いつつ、最初は愉しみながら読みましたが、後半からいきなりといいますか、無理にホラーにしなければと羽化丸が出てきた感じがあります。 羽化丸の繋ぎも一つの問題なのですが、一番宜しくないのはこの作品のタイプが、中盤まで来なければ一体何のジャンルなのかが全く見えてこない点ではないかなと思います。
リアルさを出すために沢山書かれたのは分かるんですが、ここまで話を引っ張らなくても、さっさと読者の興味を引く話題を提供しないと少々しんどいような気がしますので、もう少し手際よく纏め、そして羽化丸の使い方も再考してほしかったところです。
構成力・−1 |
名前: 気まぐれルート66 ¦ 22:56, Tuesday, Sep 29, 2009 ×
遺伝元をネタにとどまらせず活かしていて面白かったです。羽化するだの脱皮するだのの薬を平気で飲む女性って怖いですね・・。 |
名前: 読書愛好家 ¦ 23:23, Thursday, Oct 01, 2009 ×
実はこれもどこから講評しようか迷っていたんです。目立った隙があるわけじゃないけど、突出した点があるわけでもないというか。多分、冒頭からの主人公の物憂い感じに、書いた人は力を入れたんだと思いますが……(私もその歳になったら、分かるのかな)。 羽化丸というアイテム自体は他作品でも使われてきたものだから、この作品内で「どの時代にどういう経緯で開発されたか」「最初に作った目的は何か」が、もっと独自の世界観で踏みこまれるとよかったかな。 |
名前: あおいさかな ¦ 23:55, Thursday, Oct 01, 2009 ×
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QRコードの中に 潜む実話怪談

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