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(アフター・デス――から)
資料は全て住宅供給公団のファイル・キャビネットに収まっていた。 すぐに全てを取り出し、空いている会議室のテーブルの上に並べる。 ダークスーツの男は慎重に写真を1枚1枚確かめはじめた。 鴇田も一緒に眺めたが、そこから何かを読み取るのは彼にはできそうも無かった。
ダークスーツの男はかなりの時間をかけて数十枚あった作業報告ファイルの中の写真に目を通すとそれをテーブル上に並べはじめた。 作業はその日の公社の業務開始直後から始めていたが、時計は既に昼を過ぎ、3時になろうとしてた。 「この部分の記号を見て下さい。左のにはないのに右にはある。こちらの記号はさらに右の写真にはあるのにこちらにはない。つまりまったく同じように見える穴の写真ですが、少しずつ違ってる。何らかの情報にしたがって、徐々に最終的な目的に向けて改良されている」 並べられた写真は左から右に行くにしたがって徐々に記号の配列が増えている。中には新しい記号が加えられているのにいくつかの記号が削除されたりもしていた。
「最終的な目的ってなんですか?」 鴇田は勢い込んで聞くがダークスーツの男は首を振るだけだった。 「それは彼らに聞くしかない。それとよく見ると記号の書き方はそれぞれ違う。几帳面で丁寧な物もあれば大きさが不揃いだったり。一人の人間が次々と連続して作成してるんじゃなくて、それぞれの場所でまったく違う人物が描いてる」 「どういう事ですか?」 「もしもエターナル・ドーンがひとつのカルトか何かなら、祭壇を無数に作るよりも信者を一ヶ所に集め、奇跡を起こしてみせてだました方がいい。あちこちでこんな実験をやっていては、自分たちが危険な存在だと教えて回っているに等しい。その上、秘密を知っている人間が増えれば増えるほど、情報が漏れる可能性も高くなる。自殺行為だ」 ダークスーツの男は懐から出したタバコをくわえて火をつけ、「どうやら探す方向を最初から間違っていたらしい」とつぶやいた。
ダークスーツの男は駐車場に止めてあった車に戻った。今回の仕事を受けるにあたり、住宅供給公社から使用するように指示された、公社の名前の入った白いステーションワゴンだ。公社の物件に入ってマスターキーを使うので、公社の車で現場に行って欲しいという事だった。 そこでハードケースからあの瓶と銀色のダクトテープを取りだして運転席に座った。 鴇田もすぐに助手席に座る。 「この先はあなたの仕事じゃない。あなたの手に負えるような話じゃない。こういう時に使い捨てにするために下請けがいるんですよ。事件があっても公社に責任が及ばないようにするためにね」 「なら公社には監督責任があるじゃないですか。公社の支出が適切に使われているのか。それに入居者のために働くのは公社の役割でしょう。何があったのか見届けたいんですよ」 「あなたが目にすれば、あなたがその場所にいれば、それだけで責任が発生するんです。こんな事であなたのキャリアを無駄にすることはない」 それまでムキになって反論しようとしていた鴇田が手元に目を落とす。ダークスーツの男が懐から取りだしたタバコに火をつけた。
「私が公社に入れたのはたまたまです。競争する相手がいなかったから。私の年代でまともに勉強しているのは一握りだけ。かけ算と割り算ができればいい方で、まともに漢字も読めない。みんな生き延びるのに精一杯だったからです。私はたまたま両親が教師で。待避壕にいる時も勉強を教えてくれていたから中学生程度なら……私より下の世代はもっと大変です……」 「だったらその幸運を無駄にしない事ですね。あなたにとって大切に思えない事でも、重要だと思ったから公社は採用したんです。足りない分はこれから補って行けばいい」 「ここで、何が起きているのかを知らずに終わらせてしまったら、きっと後悔する事になると思うんです。私はこの世界で何が起きているのかを知りたいんです。見届けなければ忘れられてしまう。生き延びた私たちにはそれを伝える責務があると思うんです」 ダークスーツの男が首を振った。 「そのために報告書があるんだがね。まあ、好きにすればいいさ。だがきっと後悔する事になる。まだ終わっちゃいない。いや、終わることはない。いつだって人間の世界で起きる事は昔から変わらないのさ」 鴇田は身体を小刻み震わせていたが車から降りなかった。その震えが恐怖によるものなのか、あるいは使命感から来る興奮のせいなのか、鴇田自身にもわからなかった。
ダークスーツの男はそれ以上は何も言わず、手に持った瓶のフタを小さく開けると、中にタバコの煙を吹き込んですぐにフタを閉じた。 鴇田には瓶が空に見えたが、そうではなかったらしい。ほんの少し煙った空気の中に紙片のような薄い何かが浮かび上がった。瓶の側面に張り付いているように見える。 中の紙片が瓶に張り付いていれば瓶をゆっくりと回すと瓶と一緒に回転するはずだ。だが紙は回転しない。瓶を回してもいつも同じ場所を動かない。つまり瓶を回すと中の紙片はそれと反対方向に回転と同じ速度で移動している事になる。 「こいつはあの穴の中から出てきた物です」 「これがですか? 意外と小さくてかわいいんですね。ただの紙切れにしか見えないけど」 そう言って身を乗り出して覗き込む。
「この瓶に入ってる間はね。こいつはたまたま物理的特性を持っていたから瓶に閉じ込めておける。また、物理的な量が小さかったからこの小さな瓶ですんだ。運が良かった」 「で、これがなんなんです?」 「庭の石をひっくり返すと虫がいる。そうすると、そいつらはすぐに隣の石の下に隠れる。そいつらにとっては、じめじめとした石の下のほうが居心地がいいからだ。こいつらもそれに似ている。でもこいつらが石の下の虫と違うのは、こいつらは隣の穴じゃなくてあくまでも自分たちの出てきた穴に戻ろうとする。つまりどこの穴でもいい訳じゃなくて、穴にはそれぞれ個別の意味があるって事になる」 「穴の底は同じ大きな場所につながってるんじゃないんですか?」 「さあね。確かめるためには降りて調べるしかない。だが、そんな調査は御免こうむる」 鴇田は冗談と思って笑ったが、ダークスーツの男は無表情のままだった。
「こいつらはあの部屋にいたが穴の中に戻ろうとしなかった。違う穴から出てきた奴ってことになる。たまたま近くを通りかかって、穴を見つけたんで寄ってきたんだろう」 「自分が戻れる穴を探してさまよってた訳ですか」 「出てきた穴に戻れなくなったのには理由があるはずだ。その答えはきっとこれにあるはずだ」 ダークスーツの男が瓶を回す。中の紙切れは回転に逆らうように一点にとどまり続けていた。ダークスーツの男は瓶をダクトテープでダッシュボードの上に固定し、公社の駐車場をあとにした。
それからダークスーツの男は鴇田を乗せて公社の車で走り回った。瓶の中の小さな怪物の動きを理解するのに1ヶ月近くを要した。 そして2人は1つの結論に到達した。 その小さな怪物は近くに穴があれば、その穴に引き寄せられる。 あちこち走り回ったおかげで未発見だった穴をいくつも発見し、トラブルが起きる前にすべて処理する事ができた。 問題は近くに穴がない時だ。穴がない時、そいつは常に首都から離れようとしている。最初は首都圏外からやってきたのかと思ったが、どうしてもその場所を絞り込む事ができなかった。
そうして得た結論は、そいつは首都の一点からひたすら離れようとしているという事だった。
2人は首都復興庁の中核事業のひとつ、キャピタルセンターの中央に位置する、新首相官邸の建設現場に来ていた。キャピタルセンターは新たな首都機能を持った施設の集合体だった。以前は急ピッチで工事がすすめられていたが、安全性の面を考えて現在使用されている大深度地下に作られている官邸と国会議事堂の使用が延長される事になって、工事は中断気味になっていた。 そこが選ばれたのは集中砲撃と大規模爆弾の集中爆撃で建物が全て消失してしまっていたからだ。大型の施設を新たに集中して作るのに都合が良かった。 そしてそこはハエ共を追い詰め、全滅させたまさに勝利のシンボルともいえる場所だった。
だが、同時にそこは悪夢の中枢でもある。 当初は勝利に酔い、敵を蹂躙した地に巨大で半永久的な記念碑を建てる事に誰もが熱狂した。しかし勝利の余韻が冷めるに従って、戦いで最大の被害を出した哀しみの地を誰もが避けるようになっていた。 安全性のために地下施設の使用を延長するというのはただの言い逃れだった。
作りかけの白い巨大な墓石のようなビルに近づいて行くと入り口の前に女が立っていた。 夕日が赤いスーツをさらに深く、濃く染めていた。襟のすぐ上で切りそろえられた漆黒の髪。鋭い猟犬の目が2人を油断なく迎えた。 「どうしてここがわかったんだい?」 ダークスーツの男が世間話をするような気軽さで女に声をかける。だがその顔は能面のように無表情なままだった。鴇田はこの1ヶ月、彼の顔に何かの表情が浮かぶ事を1度も見る事ができなかった。いつも冗談めかした皮肉を口にしたが、それが本気なのか冗談なのか鴇田には見当もつかなかった。底知れない暗闇を悪魔の仕立て屋が縫い合わせるとこの男のようになるのかもしれない。彼が悪意ある行動や言動を見せた事は一度も無かったが冷たい空気が吹き散らされて消えることは一度も無かった。 「住宅供給公社にはスパイを送ってあるからね」 女が笑う。吊りあがった口元の曲線は笑っているよう見えたが、この女の笑顔もまたダークスーツの男とはまったく違う種類の仮面のようだった。笑いの下に何が隠れているのか想像もつかない。
「スパイがいるなんておおっぴらにバラす事じゃないだろうに。まあ、まったく気づかれずに尾行するのは防衛省の情報保全局ならお手の物だろうけどな」 「正体はお見通しって言いたい訳ね」 「あんなに訓練が行き届いて統制がとれたチームは情報保全局かレンジャー部隊しかない。レンジャー部隊は街中で遊んでられるほど暇じゃないからな」 鴇田がダークスーツの男の耳元にささやく。 「あの女がエターナル・ドーンなんじゃないんですか?」 その問いにわざと大きな声で答える。 「いいや。エターナル・ドーンなんて最初から存在しない。詮索されるのが面倒だから適当にでっち上げた。何でも良かったのさ」 「なかなかいいアイディアだったでしょう?」 「まあね」 ダークスーツ男がくわえていたタバコを踏み消して新たな1本に火をつける。 「向うはこっちより先に、ベールゼブブを埋めた場所の上にだけ穴があるのを知ってた。だから住宅供給公社より先に穴の場所を予測できた。それで自分たちで先に見つけて公社に通報してきた。連中が通報してるんだからこっちがどんなにがんばっても連中を出し抜く事はできない。最初からイカサマのゲームだったんだ」 ダークスーツの男が建物に向かって歩きだす。鴇田もあわててあとに続いた。この物騒な状況で頼りになるのはダークスーツの男だけだ。
「この間もらった瓶、帰ってから割れてしまってね。おかげで私の部下が2人も死んだわ。あいつらに生きたまま喰われて。あんなに優秀な隊員はいなかったのに」 「だから言ったろ。危険物だからやめておけって」 「NSAじゃ、ああやって陰険な仕返しをするように教えてるのかしら」 NSA――国家保安局はハエ戦争の後の省庁改変で作られたもう一つの柱だった。首都復興庁が破壊された都市の復興のために活動し、NSAは治安の崩壊した地域での外部勢力の浸透とそれによる暴動の煽動などが起きないように治安機能の強化のために新たに設立された。従来の公安警察や内閣府にあった情報組織などを統合して、専門の調査活動のための活動員を集めて組織されていた。 「公社の下請けじゃなかったんですか!?」 何もかもが鴇田の想像していた事と違っていた。 「下請けよ。正確に言うと、NSAの下請けとして雇われて、住宅供給公社の下請けという形で送り込まれていた訳。公社には本当に協力してたからスパイと呼んだら気の毒よね。でもダブルスパイとあんまり変わらないかしら?」 「逃げた奴らはどうした?」 「核融合用のレーザーで焼いたら消滅したって。こっちの世界の物じゃなくても消せるのね」
入り口のところまで来ると、赤スーツの女が道をゆずった。 「あなたが見つけたんだものね。お先にどうぞ」 「そんな派手なスーツじゃ目立ってしょうがないだろう」 「こんな格好で情報活動をしてるなんて誰も思わないでしょ? おかげであなたのお友達は私の事を幽霊かなんかだと思ったみたいだけど」 それを聞いて鴇田は顔の血管に血液が集まってくるのを感じた。確かにそう思って友人の一人に話した事がある。その話が彼女の言うスパイというのを通して伝わっていたのだろう。 「みんな私をキャプテン・クリムゾンと呼ぶわ」 「Indestructible。君も不死身って訳だ」 「それも国家機密か何かですか?」 女がクスクスと笑ったがダークスーツの男はいたって真面目に答えた。 「いいや。昔あったテレビ番組のヒーローさ。彼は不死身なんだ」
「もしも未来を完璧に予想できるようになったって言ったら驚く? 技術研究部がその方法を発見してね。ただし特定の人物がいつ、どの日、どの時刻に死ぬのかって事しかわからないけどね。誰でもってことじゃない。私はまだ死ぬことになっていないからここで死ぬことはないわ。情報活動をしている人間に何よりも必要なのは絶対に生きて情報を持ち帰る事よ。だから志願した」 「それってすごい事じゃないですか!」 鴇田が感激した様子で答えたが、すぐにダークスーツの男に冷や水を浴びせられた。 「自分がいつ死ぬかわかるって事が楽しい事だと思うかい? いつも時計を見ながら1分1秒を無駄に過ごした事を後悔しながら生きつづけるんだ」 「人間は2種類にわかれるわ。自分の限界を知って楽しむ人と限界を知って絶望する人に。私は悪くないと思うけどね。でも堪え切れなくなって頭がおかしくなった人も結構いたわね。自殺しようとしても絶対に死ねないって気づいてね。首を吊っても頭を撃っても失敗するんだから予測は絶対ってことよね」 そう答える女の顔は笑っている。まるで恐怖と危険と絶望を楽しんでいるかのようだった。 鴇田の両側には人の形をした、もっと得体の知れない何かが歩いていた。
「連れ去った人たちはどうした」 「ほとんどが死んだわ。助かった人たちもひどい脳障害を起こしていて長くないでしょうね。家族の元に返すべきかどうか公衆衛生局と検討してるわ。薬の事は知ってるんでしょ?」 ダークスーツの男が見つけたプラスチックの容器の事だった。NSAを通じて公衆衛生局に問い合わせた結果、非常に危険な物とだけ答えが帰ってきた。ようするに余計な事に首を突っ込むなという意味だ。 「あの部屋から連れ出した人は?」 女は黙ったまま首を振った。
建物はまるで巨大な聖堂のようだった。 天井が非常に高く、アーチを描いている。廊下は幅が数十メートルもあり、両側には一定間隔で大理石の柱が立っている。 床も巨大な大理石のパネルでできていて、まるで自分の身体が小さく縮んでしまったような錯覚に襲われる。誰が何の目的でこんなとんでもない建物を作ろうと思ったのか見当もつかない。 それほど、当時の人たちは勝利に熱狂していたのだ。 冷めてみればそれはいびつな夢の残滓だった。
聖堂の奥に祭壇があった。 漆黒の巨大な円。それは今までに見慣れた物だった。違うのはそれが今までのものと比較にならないくらい大きな事だ。直径が30メートルほどもある。 その中央にあの紙切れたちがこの穴に戻れなくなった理由があった。 ベールゼブブがいたのだ。 穴のすぐ上の空中で停まっている。だが動く様子はない。まるで凍りついたように停まっていた。鴇田はそれを見て子供の頃の恐怖がフラッシュバックした。まきちらされるウジと生きたままむさぼり食われる人間の悲鳴。大人も子供も男も女も容赦なく喰い尽くされ、生き残った人間はなすすべなく逃げ惑うしかなかった。 ヒザが震えるのを止める事ができなかった。 沈黙を破ったのは女の声だった。
「佐野技術中尉。あなたが持ち去った研究は全て防衛省の財産です。ただちに投降して、全てを返却しなさい。あなたの研究が有益なのはわかっているから悪いようにはしないわ。研究を続けられるのよ?」 「そいつは断る」 声がした。どこか機材の影に姿を隠しているようだが、ホールの中で音が反響してどこかわからない。 「私が研究したいのは人間を守る研究であって殺す研究じゃない」 「あなたの望みは良くわかるわ。でも誰かがやらなければならないの。世界中でベールゼブブを利用した次世代の技術を開発してる。私たちだけが遅れれば、結局は私たちは殺される事にしかならないの。何度も説明したでしょう」
防衛省ではベールゼブブから技術を抽出し、次世代の兵器に転用するための研究をしていた。これは競争だ。一度始めたら誰もやめられない。たとえ誰も始めていなかったとしても恐怖が疑心暗鬼を産み出して無限に人を駆り立て続ける。 「もう。ハエは全滅したんですよね? どうしてそれが」 「そこが佐野技術中尉のすごい所でね。土中に埋められた微小な痕跡から再生することに成功したの。もともと昆虫の外骨格には限界があってあれ程大きくなったら自重で潰れて死んでしまう。それを魔力で強化して生まれた人工生命体。錬金学と魔術の融合で生まれたのがベールゼブブなのよ。逆に言えば錬金学的なアプローチと魔術によって再生させる事ができる。その過程で産まれたのがこの穴ね。ベールゼブブの死体を利用して通路を作り、そこから再びベールゼブブを呼び出すのよ」 そしてあらわれたハエをああして空中に止めておくのだ。研究のために。 鴇田はその場で身体を折り曲げて吐いた。胃の中が空っぽだったから、ひたすら胃液を絞り出して床に垂らす。
「ハエで攻撃兵器を作らなくても、人間をハエと同化してしまえばいいんだ。そうすれば連中は人間を襲わなくなる。もう少しで成功するんだ。どうしてそれがわからないんだ」 物陰から声の主が姿をあらわした。 佐野技術中尉は身体の左半分は人間だったが、右半分は黒いキチン質で覆われていた。右目は小さなきらきらした小片の寄せ集めで、まるで無数の釘を打ちつけてあるかのように見えた。 「もうちょっとで見た目は人間のままでハエが自分たちとまったく区別を付けられない所までできるようになる。見ろよ。君等は不可能だって言ったけどここまでできたじゃないか。あと少しなんだ」 「研究したい気持ちはわかるけど、みんなハエのさなぎの中でドロドロに解かされて1から作り直されるのは嫌なのよ」 「ウソだ! 多くの人が私の実験に参加してくれて、貴重なデータを提供してくれた。おかげでここまでこれたんじゃないか!」 佐野は自分の研究を密かにインターネットを通じて広め、協力者を集めていたのだ。みな佐野の提唱するベールゼブブとの完全共存と進化の次の段階を目指すという考えに共感し、協力していた。だから情報部はベールゼブブに関する研究の事実を隠蔽するため、協力者たちを探し出しては拉致し、エターナル・ドーンという架空のカルトをでっち上げた。
「いい加減に研究所に戻りなさい。ここは100人以上の隊員に包囲されてるわ。逃げるのは不可能よ」 「そうくると思ったよ。君ら情報局の連中のやることはいつも単細胞でがさつだからね。でも私は違う。ちゃんと準備を済ませてある。この穴から出てきた連中がどうして穴の中に戻ると思う? それはこれがただの穴だからさ。でも私は気づいたんだよ。この穴を一方通行にする方法にね。そうすれば地下から連中がいくらでも湧き出てくる。そうすれば君らは逃げる他なくなる。逃げる方法はただひとつ、君らも私のようになる事だよ。地底の連中はベールゼブブを怖れている。あれは地獄やらやってきた蟲たちの王なんだ。誰が呼び出したのかはわからないが」 「中尉、あなたは薬のせいで頭がおかしくなってるのよ。わかっているでしょう。穴を開く特別な能力を手に入れるための薬はいずれ脳腫瘍であなたを狂わせる。もうあなたはまともな判断ができなくなっているの」 薬はこの研究の一部で人間に特殊な能力を与える物だった。これ無しでは穴を開く場所を正確に見つけることはできない。穴の位置はベールゼブブの死体の埋められている場所の真上だが、正確にはその死体の生み出す空間のひずみが完璧に中心に来るようにしなければならない。だが使えば副作用で脳にできた膿瘍が脳を圧迫して死に致らしめる。 「情報部の人間はやっぱりバカだね。私はさなぎになって何度でも再生する。その度に脳もリフレッシュされる。私に怖れる物はない。
佐野技術中尉は手元にあった本を穴に投げ入れた。 すぐに穴の底から無数の羽音が聞こえてくる。音などという生易しいものではない。空気を振動させ、神殿の巨大な大理石の固まりさえも震えていた。 穴から無数の虫たちが吹き出してきた。 佐野の口が大きく開かれていた。笑っているらしいが音はここまで届かない。
「もしも、私が虫たちを止めたら、その間にあの穴を何とかできますか?」 鴇田がダークスーツの男にたずねた。 「さあね。約束はできない。ただ、もしも蟲を止めてくれるのなら、あのベールゼブブだけは私が殺す。蟲共は地上に上がってくるかもしれないが、ベールゼブブが解き放たれる事だけは止めてみせる」 「やってみます。でも20年ぶりですからね。上手くできるかどうか……最後に教えて下さい。どうして私に虫を操るのやめさせた時と同じなんですか? どうしてあれからあなたは歳をとってないんです?」 ダークスーツの男は懐からタバコを取りだすと火をつけずにくわえたまま答えた。 「昔から老け顔なのさ」
鴇田は男の答えに何か言いたげに口を開きかけたが、何も言わずに穴の方を向き直った。 そして子供の頃と同じように口から小さな羽音が漏れる。 最初は蚊だった。小さな蚊があつまって蚊柱を作る。20年ぶりだったが腕は鈍っていないようだった。 次はトンボ。次はチョウ。鴇田の喉から出る空気の振動が虫たちを惑わせていた。 方向を見失い、まるで街灯に集まる夏の虫のようにくるくると回りだす。
ダークスーツの男が走りだした。 床を蹴ってぐんぐん加速して行く。 最初はどんどんピッチが上がって床を打つリズムが速くなって行ったが、すぐに歩幅が長くなってひと蹴りで2メートルも前に進む。 飛ぶように走る男は穴の手前でも減速することはなかった。両腕で顔をかばうようにして虫たちの中に飛び込んで行く。 それらは遠くからは虫の形に見えたが、近くで見ると頭部は人間のそれだった。
穴を踏んでも男は落ちなかった。 今、穴は地底からこちらの世界に向かって一方通行でつながっている。 蟲たちが地底に帰る事ができないように男を飲み込むことはない。 ダークスーツ男はベールゼブブのすぐ下につくと空中を力一杯蹴った。 振り向きざまにポケットから取りだした紙片を凍りついた巨大なハエの王の背中に貼り付け、両手をハエの上に着いてさらに身体を前に押し出す。 身体が宙でゆっくりと回転して行く。 空中で男はベールゼブブの身体が徐々に溶けて行くのが見えた。
ベールゼブブは生まれるとすぐに身体に模様があらわれる。それは純粋にただの模様だったが、その模様が魔方陣を作り、彼らの身体を物理法則の限界を越えて強化し、ありえない存在をあり得る存在へと変容させる。 だがそれはあくまで模様であり、記号に過ぎない。 その記号にノイズを混ぜてやれば記号は意味を成さなくなる。 10年前にハエとの戦争に勝ってから、彼らの身体を構成している魔法を多くの人間が研究していた。そしてその魔法を身体のどの位置からでも正確に打ち破る完全な記号を作り出してたのだ。
ベールゼブブの身体が溶けだすと同時に、黒い穴の一方通行が破れていく。 空中で迷っていた無数の蟲たちが穴の底に戻って行く。 ゆっくりと身体を縦に旋回させていた男の右手がなんとか穴の縁に着いた。着地の衝撃でジャケットのポケットからこぼれ落ちた銀色のライターを空中で受けとめる。 回転モーメントが彼の身体を穴の外側に吹き飛ばし、床と据えつけられていた研究機材に猛烈な勢いで叩きつける。分子測定器の筐体が自動車にはねとばされたかのようにへしゃぎ、床を滑走して壁にぶち当たった衝撃で破裂した。 最悪の着地ではあったが首の骨を折るのは避ける事ができた。
ダークスーツの男がゆっくりと身体を起こすと、女が佐野技術中尉に手錠をかけているところだった。 身体に付いた埃を払い落としていると鴇田が駆け寄ってきた。 「大丈夫でしたか?」 「最悪の気分だよ。これから10年は走りたくないね」 鴇田は安堵で思わず笑いが出たがダークスーツの男はあいかわらず無表情のままだった。
女は中尉を近くの大きな機材に手錠で固定すると、少し先にあった銀色の金属製のキャビネットに歩み寄る。 「頼む。やめてくれ」 中尉は力なく懇願していたが女は相手にしなかった。 キャビネットが開くと、中から吹き出した冷気が白い霧となって床の上を這った。 女が中から引き出したのは一抱えほどもある巨大なガラスケースだった。 ガラスケースの中身は培養液で中には脳が浮かんでいた。 そいつを両手で頭上に持ち上げ、穴の中に投げ落とす。 佐野技術中尉はその場に泣き崩れた。 同じようにもう1本のガラスケースも穴の中に投げ込んだ。
「ハエと同化するなんてただの口実。研究を利用して亡くなった奥さんと娘さんを甦らせる事が目的だったのよ。だから自分自身まで実験台にしたし、全然関係のない人たちまで巻き込んだ。それが人間って生き物なのよ。自分のためなら他人の家族なんて死んでも気にしない。どこまでも冷酷に利己的になれる」 「ハエにやられたんですか?」 鴇田が恐る恐るたずねた。 「いいえ。せっかくハエたちから生き延びたのに、その後で強盗に殺された。ハエたちから人間を守るために戦っていたのに、守ってやったハズの人間に殺されるなんて皮肉よね。ただ持っていた缶詰を取りあげるためだけにね」 ダークスーツの男が話を引き継いだ。 「ひどい時代だった。誰もが生きるために精一杯だった。人間は弱い。ただそれだけの事さ」 だが女は容赦しなかった。 「DNAだけじゃ身体は再生しても記憶は戻らないでしょ。だから脳を使って完全によみがえる方法を防衛省の予算で勝手に研究していたのよ。バレそうになって全てを持ちだして逃げた。みんなが生き残るために必死に戦っている時に盗みを働いた薄汚い裏切り者よ」
外部で待機していた兵士たちが女のスーツに付けられていた集音マイクで事情を把握し、神殿の中にやってきた。 連れ出される佐野の背中を鴇田が見送っていた。 「だから言ったろ。後悔すると。人間は綺麗なだけじゃない。だが汚いだけでもない。あんたが助けてくれなきゃみんな死んでいた。あんたの力が役に立ったよ。あの時、虫を集めるのを止めるように言うんじゃななかったな。もっと良く練習しておけと言ってやるべきだった」 「いいんですよ。どうせ虫を集めるどころじゃなかった。もう帰りましょう。もう十分だ」 ダークスーツの男はくわえていたタバコに左手に握っていたライターから火を移した。もしもその時、鴇田が男に背を向けずにその顔を見ていたら、赤い炎が一瞬だけ男の顔に浮かんだ表情を照らし出すのを目にしたかもしれない。1020年前の少年の面影をなつかしげに思い出す男の顔には安らぎと、失われていったすべての者たちの背中へ向けられる惜別があった。 ライターの炎が消えると同時に男はまた元の無表情な顔に戻っていた。
立ち去る2人の背中に女が声をかけた。 「2人とも雇用契約で公務員の守秘義務に従うとなっているから、ここで見たり聞いたりした事を誰かに話すと最大で無期懲役になる可能性があるから。また、研究などについて話すと機密漏洩罪で最高で死刑になる可能性もあるから、くれぐれも口には気をつけてね」 2人は振り返らなかった。 「ねえ。ちょっと。NSAのあなた。名前は何て言うのかしら」 「榊原、とでもしておいてくれ。だがスカウトならゴメンだ。汗臭い新兵訓練キャンプなんてお断りだ」 それを聞いた女がクスクスと笑う。 「誰があんたなんかスカウトするのよ。私があんたを撃ち殺す事になったら墓石だけは私がプレゼントしてあげるわ」
ダークスーツの男はポケットから瓶を出して床に叩きつけた。 砕けたガラスの破片の中から薄っぺらな人型をした物が飛び出して巨大な黒い穴の中に飛び込んだ。
(了)
【事務局注】 この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。 このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。 これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「アフター・デス-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。
なお、正式タイトルは「アフター・デス」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。
文中の10は、公開後に作者からの依頼で誤字を修正した箇所です。
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01:34, Wednesday, Sep 16, 2009 ¦ 固定リンク
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QRコードの中に 潜む実話怪談

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