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研修で四日市市の保健所が割り当てられることは、非常に運が悪いことだった。住んでいる人には申し訳ないが、とても居れるところではなかった。とにかく、臭い。異常に臭い。電車に乗っても車に乗っても窓を開けられない。たまに愛知の実家に帰る時、対岸の名古屋港からも、夜間、コンビナートの火が見えた。まるでたくさんの人魂であった。 加奈子の担当した地域は、公害認定医はもとより、普通の医者も看護婦も足りていなかった。自宅訪問の帰り道、塩を掛けられたことがある。 「学生さん、ごめんなぁ」 おばあさんが、塩を手に、申し訳なさそうに言うのだ。加奈子の願いはただ一つ。一日も早く実習期間が満了することだった。
加奈子の受け持ちの患者さんに、肺結核と四日市ぜんそくとを同時に患っている人がいた。 呼吸器の病気をしたことがある人なら、いくらか、恐ろしさを想像できよう。 水元武、五十歳。旋盤工。独身。 死体袋にも見える家に、水元さんは住んでいた。しめ切られた家は蒸し風呂のような暑さなのに、玄関の三和土だけは、何故だか、背骨に突き抜ける冷たさがあった。死がもう足の裏まで来ているようで、靴を脱ぐのが恐ろしかった。水元さんは湿った畳の上で、布団を体に巻きつけていた。その上をいつも、ときに渦巻くほど、数匹の蝿が飛んでいた。 「水元さーん、窓、開けますね。ちょっと換気しましょうねぇ」 汗だくになりながら努めて明るく言って、窓を開ける。風はなく、血と唾と呼吸の臭気がそれだけで逃げていくこともなかった。 振り向くと、薄い布団から出た水元さんの肩が、がたがた震えている。 「それじゃ体温測りますねぇ……水元さん、水元さん?」 枕元にしゃがみこむと、茶色く血のしみた蒲団を握りしめ、黄ばんだ白目を充血させて涙を浮かべていた。 「水元さん、どうしたの?」 「……ハエが……」 加奈子は梁の上を飛びかう蝿の群れを見上げた。 「ハエ?」 「…………の目ぇをしちょるねん」 「え?」 「ハエが、」 うぅ、と呻くと、水元さんは痩せ細った体を起こした。 「……ゆうれえの目ぇや言うてんのや!」 そう言うと、滲んでいた涙が一気に流れ落ちた。 「オバケがおる言うたん、ワシや! 最初に、ワシが鎌田を見た言うたんや! そしたら俺も、俺もて言いよる、『俺は山本見た』『佐藤を見た』て、みんな言いよるんやぁ」 「水元さん」 「ワシが言うたんや、死んだ鎌田が、隣で戦ってくれとったって、あれさえ言わなんだら誰も怯えぇへんかったんや……幽霊、撃たんと、移動ができた。敵に見つかって殺されせんと、移動ができたんや……!」 声が震え、言葉が、慟哭になる。激しく呼吸が乱れ、薄い胸が上下しだす。 「ワシがみんなを殺したんやあぁッ」 叫び声が咳に変わった。骨の浮き出た背中を屈め、内臓を吐き出すような激しい咳をしはじめた。 その口に二、三匹の蝿が、狙いを定めたように飛びこんだ。 水元さんが目を見開き、咳と呼吸を止める。 加奈子はあわてて背中を叩く。 水元さんが、乾いた咳をこぼす。 蝿ではなく、なにか布の切れ端のようなものが、口からとびだした。 ひと思いに引くと、血に濡れた、驚くほど大きな布がずるりと出てきた。
――それは、引きちぎられた白旗だった。 正午のサイレンが鳴る。
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受信: 02:38, Tuesday, Dec 22, 2009
■講評
死んだ戦友が隣で戦ってくれていた。 これって、別に怖い事じゃなく嬉しい事っていうか…有難い事じゃないのかなぁ…? それが恐怖に波及して行く様がよく分からず、 みんな死んだならどうして水元さんは生き残ったか、とかもう一押し欲しい気がします。 舞台はそろっていて、文章も申し分ないので時間が無かったのかな…。 研磨が途中までしか出来ず透き通らなかった宝石、という感じがします。
文章 1 構成−1 舞台 1 |
名前: ほおづき ¦ 09:08, Tuesday, Dec 08, 2009 ×
これは辛いです。哀しいです。 幽霊とかそんなのではなく、この水元さんは自分で自分を罰しているような気もします。 読後、水元さんが真に救済されることを、願いました。
*文章+1 |
名前: げんき ¦ 23:12, Saturday, Dec 12, 2009 ×
実在の地名に躊躇いを憶えましたが、まあこれは、地名を出さなければ成立しえないだろうと思います。 ラストのサイレンによって、現代と戦時中が重なり合っていき、悲しみとも絶望とも違う静かな気持ちが呼び起こされました。 自分自身が広めた、死んだ戦友を見たという噂。それは恐慌をもたらし、多くの仲間たちが死ぬ結果となった……。 説明させる文章(セリフ)の情報量はこれでもいいと思います。 ただそれを急ぎすぎているのが残念。満点から−1です。 |
名前: あおいさかな ¦ 00:31, Sunday, Dec 13, 2009 ×
発想+1 文章0 構成0 好み+1 続きを読みたい話ですね。 これからさらに恐ろしいことが起きるのではないかという、得体の知れない不穏さが漂っていてとてもいいです。 まだ始まり、序章といった感じです。 |
名前: 戯作三昧 ¦ 10:21, Thursday, Dec 31, 2009 ×
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QRコードの中に 潜む実話怪談

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