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シュレーディンガーの蚊帳
 けたたましい目覚ましの音に目を覚ますと、室内は既に障子越しの柔らかな光に包まれていた。
 隣に目をやると既に洋子の姿はなく、彼女の布団は綺麗に折り畳まれていた。
 私はそっと布団から抜け出すと蚊帳をめくり、足元に慎重に目配せしながら、恐る恐る一歩を踏み出す。
 これは、この家に入ってから身についた癖だ。
 念入りに畳の上を見渡したが、何処にも虫の死骸は落ちていない。どうやら普段通り、洋子が掃き掃除をしておいてくれたのだろう。
 障子を開けると清々しい外気が頬をくすぐり、私はそれを寝惚けた肺の奥深くへ吸い込む。
 庭に面した廊下のガラス戸は全て開け放たれており、鮮やかな緑が一望できた。
 これも蚊取り線香の残り香を洗い出そうという洋子の配慮だ。
 廊下にも虫の死骸はなく、昨晩仕掛けられた蚊取り線香も片付けられている。
 居間に向かうと、笑顔の洋子が既に待っていた。
「孝一さん、お早う御座います」
 洋子はちゃぶ台の向かいに座り、私の湯飲みへ茶を注ぎ入れる。
「ああ」
 私は黙っていつもの場所、いつもの座布団に座って胡座をかき、傍らの新聞紙を手繰り寄せて開きながら、ちゃぶ台に並んだ朝食をつまんだ。
 座布団の位置も、その傍らの手繰り寄せやすい場所に置かれた新聞も、新聞を見ながらでもつまめる位置に並べられた朝食も、すべて洋子の配慮だ。
 私は湯飲みを手に取り、ほうじ茶を流し込む。
 暑すぎず、かといって決して温くはない。湯飲みも適温だ。
 新聞の二割ほどを読み終えた頃、私は朝食を食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
 開いた新聞を通して、かちゃかちゃと食器を片付ける音が聞こえてくる。
 その音を聞かないようにしながら、私はただ紙面の字面だけを追い続けた。

 簡単に身支度を調えると、私は家を出た。
 まだ五時過ぎだというのに、村のあちこちで見知った人と顔を合わせる。
 側溝の掃除をする老婆、犬の散歩をする若い夫婦、散歩している老人。
 そのいずれもが、判で押したかのように同じ時間、同じ場所で遭遇する。
 彼らにしてみれば、自分の方こそ同じ時間に背広姿で駅へ向かう男なのだろう。
 そんな事を考えながら駅へと向かう。
 人影もまばらな駅で私を乗せた電車は、都心へ近づくにつれて徐々に混み始め、御茶ノ水駅に着くと他の乗客もろとも私を吐き出し、すぐに走り去っていった。
 この時刻にはまだ学生達の姿もまばらで、私はスーツ姿の人の流れに紛れて雑踏を歩く。駅沿いの大通りには多くの楽器店が並んでいるが、どれもまだシャッターは上がっておらず、けたたましいデモンストレーションは行われていない。それらの前を通り過ぎると大学のキャンバスが林立する区域へと入る。多くのスーツ族はその前を通り過ぎて九段下や小川町、あるいは大手町方面へと歩き去っていく。
 私はその流れから抜け、通い慣れた大学のキャンパスへと向かった。
 守衛にIDカードを提示して構内に入るとロビーでコーラを買い、エレベーターホールへ向かうと、そこには先客が居た。
「里奈君、随分早いんだな」
「あ、先生、お早う御座います。今日の研究の準備が手間取りそうなので」
 にっこり微笑む彼女は、大きな段ボール箱を抱えていた。
「重そうだな。私が持とう」
 そう言いながら手をさしのべると、彼女は慌てて後ずさりした。
「駄目です! 先生の嫌いな虫が入ってますから」
 その一言に私は慌てて手を引っ込めた。その様子を見て、里奈はくすくすと笑った。
「笑うことないだろう」
「だって先生、子供みたいだから」
 図星だが、ストレートに言われるとあまりいい気はしない。
「君こそもうちょっと大人らしい格好は出来ないのか。白衣が給食当番の割烹着に見えるぞ」
 里奈はまるで化粧っ気がなく、やたらに伸ばした黒髪を地味な髪留めで無造作に束ねている。おまけに背も低く童顔なため、初めて入る居酒屋では必ず身分証の提示を求められるくらい幼く見える。
 それは本人も嫌と言うほどわかっていることだが、改めて言われたことが余程かんに障ったらしい。背の低い彼女は私をじっと見上げると、じりじりと近づく。
「……箱の中身、被ってみますか?」
 里奈は尚もじりじりと私に近づいてくる。
 しかし下手に彼女を押しのけようものなら、何かの拍子に箱の中身がぶちまけられてしまうかも知れない。
 しかも、彼女は箱の中身をただ≪虫≫だとしか言っていない。
 実験で使う虫にも様々な種類がある。アリ、コオロギ、バッタ、ミミズ……。
 もしかしたらもっととんでもない虫かもしれない。それらがあの大きな段ボールの中にみっしりと詰まっている。そんなものが徐々に近づいてくるという事実を、理性よりも粟立つ肌が即座に理解した。
「す、すまなかった。もう言わない。だから……」
 私がその場に崩れ落ちるのと、エレベーターが到着したのはほぼ同時だった。

「着きましたよ」
 里奈に声を掛けられて、私はようやく我に返った。
 エレベーターを出ると彼女につかず離れずの距離を保ちながら廊下を歩き、やがて研究室の前に辿り着いた。
「先生はあっちです」
 彼女の指差したのは、確かに私の教授室だった。
「あ、ああ」
 彼女に釣られて足を止めていたことに気づいた私は、情けない返事をしながら教授室へ歩き出そうとした。
「しっかりしてくださいよ。まだアラサーじゃないですか」
「アラサーって何だ?」
 はあ、と里奈は大きな溜息をついた。
「Around30。三十前後ってことです。まったく、これだから世間ズレした研究者って人は……」
「お前が言うなよ」
 それもそうですね、と里奈は笑った。
「とにかく、しゃんとしてください。新婚さんだからってデレデレしてちゃ駄目ですよ」
 私はその言葉に何か返そうとしたがすぐに思いとどまり、ただ、うんとだけ呟いた。
「それと、この箱の中身はただのスライドの束ですから」
 くすくす笑いながら、里奈は研究室へと入っていった。
 里奈は孝一の研究室に所属する院生の一人で、自分の研究や論文作成に忙しい助教授や助教の代わりにゼミの庶務を取り仕切っている。
 他の院生も彼女同様に個性があり情熱もある。私も時折その熱に当てられて議論の輪に入り、思わず熱くなりすぎることも少なくなかった。
 まるで学生時代に戻ったかのようなそんな瞬間、私はここが自分の居場所であることを強く実感する。
 しかし、そんな楽しい時間ほどあっという間に過ぎてしまう。狭い研究室を夕日が照らし始めると、院生達は成果をノートにまとめて撤収の準備に取りかかる。ゼミによっては夜通し観察を行う所も少なくないのだが、文系、しかも郷土史科というマイナーなゼミではディスカッションとフィールドワークがメインであり、それらが終わると即解散となる。
 勿論それだけではない。彼らは新婚である私にに配慮してくれているに違いない。
 だが私はいつまでも議論を続けたいくらいで、逆に院生達から窘められるくらいだった。
「マスオさんは早く帰らないと駄目ですよ」
 里奈に身も蓋もない言い方をされてお開きになるのが、最近のお約束になっていた。

 自宅近くの駅に着いた頃には、夜空を星々が埋め尽くしていた。
 人通りも途切れ、街路灯以外に夜の村を照らすものは、頭上に浮かぶ月だけだった。
 その月明かりに照らされた大きな日本家屋のシルエットが近づくにつれて、足取りが徐々に重くなる。
 それでもようやく辿り着いた玄関の玄関灯は消されていたが、引き戸の鍵は施錠されておらず、私は素早く屋内へ入ると引き戸を閉めた。
 室内には既に蚊取り線香の臭いが充満している。玄関の靴箱の上にも渦巻き型の蚊取り線香が鎮座し、赤い光がその渦をじわじわと浸食していた。
 蚊取り線香を横目に廊下を進むと、その廊下にも足元灯のように転々と蚊取り線香が配置されているのが見えた。私はその赤い点々に誘導されるように寝室へと向かう。
 寝室の障子を開くと、年代物の蚊帳が部屋の中央を覆い尽くしていた。
 編み目の向こうには洋子の寝姿が見える。
 私は音を立てぬよう、蚊帳に引っかからぬように気をつけながら洋服箪笥へと近づこうとして、思わずその足を止めた。
 その足元、部屋の隅にも、蚊取り線香が置いてあった。
 慎重にそれをまたぎ、ようやく洋服箪笥に辿り着くと、箪笥の傍の長押(なげし)にハンガーがひとつぶら下がっていた。
 私はスーツを脱いでハンガーに掛け、それを箪笥の中へと仕舞った。
 下着姿で向かった浴室の脱衣所には換えのシャツとトランクス、そしてパジャマが綺麗に畳んで用意されていた。
 着ている下着と靴下を洗濯機へ放り込むと浴室に入り、私はシャワーを浴びた。
 二世帯住宅として旧家屋をリフォームする際、浴室だけは私の要望で洋風にして貰った。
 要望通りに利便性が高く広々としたその空間は、仕事を終えて戻ってきた私の疲れを洗い落としてくつろげる環境であった筈だ。
 しかし、シャワーは気持ちをリフレッシュさせるどころか、形容しがたいどんよりとした何か吐き出し続け、その心を重くさせた。

 現在の状況に何か不満があるわけではない。
 教授に洋子を紹介されたとき、その純朴さと人当たりの良さに惚れたのは他ならぬ私だ。
 私達は交際から三ヶ月ほどで結婚した。
 義父はこの村の名家の本家筋だったのだが、それも義父と洋子で途絶えてしまうため、義父の強い希望で私は婿入りすることになった。
 そして今年の春先、義父はこの世を去った。
 義父の師によって空席となった教授の席に、私は祖父の人脈のお陰で座ることが出来た。
 何一つとして文句のないどころか、恵まれすぎた境遇だ。
 だが、私の心は晴れなかった。
 その理由はある程度わかっていた。だが、それをわかってしまうことが怖くて、私は深く考えないようにしている。だが、そのもやもやは時折首をもたげては私の心をかき乱す。
 私は熱めのシャワーを頭から浴びながら、そのもやもやを振り解こうとした。
 その時、浴室の窓にこつんと何かが当たる音がした。
 磨りガラスに目をやると、その向こうに小さな塊が見えた。
 その塊は何度も何度も窓に当たり、こつん、こつんと音を立てる。
 銅のように光るその姿は、どうやらカナブンのようだ。
 私はシャワーを止めると浴室を出て中折れの扉を閉め、手早く身体を拭いて着替えた。
 その間も浴室からは、こつん、こつんと小さな音が聞こえ続けていた。

 この家に住み始めてまず驚いたのが、その虫の多さだった。
 部屋の中にいつの間にかアリが侵入し、飲み残しのコーラの缶に行列を作る。
 雨の日の前後になるとダンゴムシが室内へと避難してくる。
 庭先で舞っていた蝶が室内に入り込み、なかなか外へ出て行かない。
 そして夏になると蚊がやってくる。
 私は虫の中でも蚊が特に嫌いだった。
 寝ようとすると耳元で飛ぶ、かと思えば音も立てずに忍び寄って人の血を吸ってゆく。
 それが一匹ならともかく、何匹も飛び交っては私の睡眠を妨げた。
 体質が違うのか、洋子はまったく蚊に喰われることがなく、田舎暮らしが長いせいか、音についてもまるで気に留めていないようだった。
 そんな洋子に何度も蚊の苦情を言い続けていたある日、帰宅した私に笑顔の洋子が見せたのが、あの大きな蚊帳だった。
 脚立を使ってどうにか寝室に蚊帳を取り付け終えると、これで安心して眠れると胸をなで下ろした。
 ところが、その蚊帳を取り囲むようにして蚊は飛び続け、その距離感としつこさが余計に腹立たしかった。
 その二日後、あの蚊取り線香が置かれるようになった。
 電池式のはなかったのかと洋子に尋ねたが、彼女は静かに、燻煙式の方が確実なのですよ、と答えた。
 そう言われては何の反論も出来ない。
 そして彼女の言葉通り、その夜は線香臭とともに静寂が部屋を満たした。
 しかし翌朝目覚めると、私は我が目を疑った。
 足の踏み場もないほど畳を埋め尽くす無数の虫の死骸は、まるで地獄絵図だった。
 その状況に固まる私を横目に、洋子は死骸を除けながら玄関先へ向かうと、箒とちりとりを手に取り、瞬く間に家中の死骸を片付けてしまった。
 平気なのかと訪ねると、洋子は微笑みながら答えた。
 たかが虫じゃないですか。あなただって、小さい頃は平気だったのではありませんか?

 翌朝、目覚まし時計に起こされると、いつも通りの風景が広がっていた。
 蚊取り線香の臭いは外気にかき消され、その犠牲となった虫達も洋子が片付けた後だった。いつも通りの朝の風景、いつも通りの朝食、いつも通りの通勤の往来の風景。
 側溝の掃除をする老婆、犬の散歩をする若い夫婦、散歩している老人。
 元気に声を掛けてくる人もいれば、ただ黙って会釈するだけの人もいる。
 そのいつもの毎日に、私は重苦しさを感じていた。

「それって贅沢です!」
 里奈は中ジョッキ片手に怒っていた。
「座高でも負けてるチビ助が、なーにわかったこと言ってるんだよ」
 院生の誰かがからかうと、彼女はそちらへと矛先を変えた。
「だいたいあんたたち男って奴ぁね、平凡な日常のありがたみってものをまるでわかってないね。あたしら乙女はね、もしかしたら次の瞬間にこの幸せが逃げていくかも、この一言で幸せが壊れるかもって思いながら生きてんのよっ!」
「里奈チビは少女漫画の読み過ぎなんだよ。それともレディコミか? このエロチビ」
 そう言った院生の顔面に、たっぷり枝豆が載った籐籠がクリーンヒットする。
「誰がエロチビだってぇ? このムッツリオタク! いい加減昼休みに研究室を抜け出して秋葉原でフィギュア買うのやめたら? あんな合成樹脂のカタマリの半端な二次元半にハァハァ言ってんじゃないわよ! 机の上に飾るな! キモい!」
「だから三次元の女は駄目なんだよ、がさつで空気読めないし劣化するし」
「あんたらの言う劣化って第二次成長期前後らしいじゃない。あんたフィギュア萌え族でロリコンな訳? あーフィギュアで良かった。そうじゃなかったら新田ゼミから性犯罪者出てるわ。で、何でしたっけ?」
 アルコールと過度の興奮で顔を真っ赤にしている里奈に問われ、私は言葉に詰まった。
 確かに彼女が言ったとおり、満ち足りた生活に息苦しさを感じるなど、贅沢なことに違いない。
「俺、なんとなくわかりますよ。ムラ社会っていうの」
 院生の一人でぽっちゃりした体格の並木君が、不意に話しかけてきた。
 ゼミでも目立たないが着実にスキルを上げてきている彼が、妙に声のトーンを落とす。
「なんか、ムラぐるみで監視されてる気になっちゃうんですよね。みんなサイクル同じだし、隣近所みんな親戚みたいなもんだから、個人情報なんか筒抜けで。俺なんか、家を出るときに隣のおばさんに腹の具合の心配までされちゃいましたよ。絶対母親が話したんですよ。恥ずかしいですよ」
「それ、並木っちの排泄音がもの凄かったんじゃなくって?」
 里奈は並木の肩をつつく。
「違うって。水下痢だったし」
 並木の言葉に一同の表情が凍り付いた。彼らだけではなく、他の座敷いいる客のテンションも明らかに下がっている。
「あんたぁ、場所弁えなさいよねぇ!」
 里奈は並木にヘッドロックを決める。その様子はプロレス技と言うよりは、熊のぬいぐるみを寝かしつけようとする幼児のように見えた。
「悪かった! ギブ! ギブ!」
 並木のタップを受けて、里奈は彼を解放した。
「わかればよろしい。で、先生、あたしはムラ社会ではなく、奥さんとのコミュニケーションに問題があるんじゃないかと思ってるんです」
「おい、それは言い過ぎだって!」
 窘める並木を制し、里奈は続けた。
「奥さんは何かにつけて先生を最優先事項に於いて行動をされています。害虫駆除、家事、朝餉、お昼のお弁当、そして夕餉。その中のいくつかは先生が明に暗に望み、奥さんはそれを当たり前のこととして受け入れている。そうですよね?」
「まあ……そうなるな」
 わかればよろしい、などと里奈はふんぞり返ると、ジョッキの中の温くなったビールを一気に飲み干す。
「並木、おかわり!」
「ピッチャーはお前の目の前にあるだろ!」
 並木は抵抗したが、ジョッキをテーブルにぶつけるゴンという鈍い音に負け、彼はピッチャーを恭しく持ち上げて給仕にかかった。その様子に満足した里奈は話を再開する。
「つまりですね、現在の新田家の主導権は婿養子だった新田孝一教授の掌中にある訳です。ですが、先生はそれをあまり快く思っていない。そりゃそうです」
 里奈は断言し、満足げになみなみと注がれたビールを一気に飲み干した。
「次!」
「は、はい」
 並木はすっかり専属給仕にされてしまった。その様子を楽しげに眺めていた里奈の視線が、再び私に向けられた。泥酔しているとは思えない、真っ直ぐで強い視線だった。
「先生、奥さんの趣味とか聞いてますか?」
「結婚前にフラワーアートが好きでやってたようだが……」
「今はやっていない。そうですね?」
 私は黙って頷く。
「奥さんの好きな食べ物、好きな映画、それだけじゃなくて、嫌いなことも含めて、まだ何も聞けていないんじゃないですか?」
「言われてみれば……」
 結婚するまでに三ヶ月、結婚してからまだ一年も経過していない。
 だが、その流れゆく月日の中で、自分は洋子の何を知ろうとした?
 里奈に言われるまで、私はまるでそのことに思い至らなかった。
「おわかりになられたようですね。先生の抱えている重苦しさはムラ社会の所為ではありません。奥さんに無理を強いているのではないかという、良心の呵責がその正体です」
「ああ……」
 返す言葉もなかった。
「リフレッシュのためにも、次のフィールドワークの時にお連れになったらどうですか? あそこの採掘場所は浅い割にいろいろ出土してますし河原も近いですからバーベキューにはもってこいです。きっと楽しいですよー」
「一番楽しんでるのはお前じゃないのか? 林間学校たのしいなーってか?」
 茶々を入れた院生を睨んだ里奈は並木からピッチャーを奪うと、その院生に向かって投げつけようとした。
「それ当たったら死ぬ! 死んじゃうから!」
 並木に羽交い締めにされ、里奈は獣のように荒れていた息を落ち着かせて座ると、ピッチャーを並木に渡した。
「……注ぎな」
 並木は無言でジョッキにビールを注ぐ。それはもはや給仕と言うよりは暴君を宥める腹心に近い。
 そんな喧噪に包まれながら、私はは思考を巡らせていた。

 飲み会でのやりとりを話し終えると、女はけらけらと笑った。
「良心の呵責、ねえ」
 私の乳首を指先で弄びながら、女は呟く。
「先生は何で後ろめたいのかなぁ?」
 女は私の上にのしかかると、私の顔をじっと見つめながら胸元を舐めた。
「わたしのせいかなぁ? でも、わたしだけの責任じゃないわよねぇ?」
 しなやかな指先が陰茎を包み込む。
 それを愛しむように撫で回しながら、女は私の唇に貪りつく。
 私は女のなすがまま導かれ、その身を預けた。
 踊り狂うように上下する女の姿を見ながら、私は再び考えていた。
 何か不満があったわけではない。
 きっと、飽きてしまったのだ。
 もし霊などと言うものが実在したとして、義父の霊がこの有様を目の当たりにしたら、どう思うだろうか。
 箱入り娘を託した入り婿と、かつて自分が大学から追放した分家の女の情事を。

 本山真理恵は分家筋の娘だった。
 彼女が義父のゼミに入った時、私はまだ助教授で、義父も現役の教授だった。義父は真理恵が自分のゼミに入ったことをとても喜んでいたが、その期待もあっさりと裏切られた。
 真理恵はゼミの男全員と関係を持った。それだけではなく他のゼミの院生や助教授・助教・助手、さらには何人かの教授にまでモーションを掛けていた。
 それはすぐに義父の知るところとなり、彼は真理恵を自主退学に追いやった。
 通常であれば自由恋愛の範囲であり、教授の越権行為として処分取り消しを求めることも可能な事例だったが、彼女にはそれが出来ない事情があった。
 彼女は年老いた母に、あのつまらない田舎村へ連れ戻された。しかしすぐに村から姿を消した。
 その行方を知っていたのは私だけだった。
 私だけが真理恵と切れることができずに、ずるずると逢瀬を重ね続けてきた。
 洋子と出会ってからも、そして結婚してからも。
 真理恵は自由奔放だったが、決して愚かな女ではなかった。
 今でも猫のように気まぐれで、普段どのような生活をしているのかさっぱりわからないような女ではあるが、ゼミで見せたあのふしだらな姿とその後の彼女の姿が、私の中ではどうしても重ならなかった。あの行動には何か意味があったのではないかと、今でも時々思うことがある。
 しかし私達の間では、自然とあの頃の話はタブーになっていた。
 互いに似たような何かを内に溜め込んでいて、より根深い真理恵のそれが自分を惹きつけているのではないかと、時々思うことがある。
 しかしそれも、事を済ませた瞬間に何処かへと散って行く。
 そして後には自分が行っている事への後悔が残るだけだった。

 シャワーを浴びていると、こつん、こつんとガラス戸を叩く音がした。
 はっとして振り返ると、真理恵が磨りガラス越しに携帯電話を見せ、それをガラス戸の前に置いた。
 恐らく洋子からの着信だろう。
 身体を拭い携帯を取ると、小さなサブモニターには洋子の名が表示されていた。
 私は電話を折り返す代わりに、手早くメールを打ち込んで送信した。
≪飲み会で遅くなった。これから電車に乗る。先に寝ていてくれ≫
 送信してから少し待ってみたが、洋子からの返信はなかった。
 浴室から出ると、真理恵があきれ果てた顔で私を見た。
「バカね。事前に連絡くらいしとけばいいのに」
「これからそうするよ」
「嘘でも疑いやしないわよ。あの子は昔からそうだから」
 真理恵の吐き捨てた言葉に小さな棘を感じたが、同時にそこへ触れるべきではないという事も察しがついた。
 深く知らない方が、この関係を続けられる。





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【事務局注】
この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。
このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。
これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「シュレーディンガーの蚊帳-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。

なお、正式タイトルは「シュレーディンガーの蚊帳」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。

23:21, Tuesday, Dec 08, 2009 ¦ 固定リンク ¦ 講評(2) ¦ 講評を書く ¦ トラックバック(3) ¦ 携帯


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» 【+2】シュレーディンガーの蚊帳 [せんべい猫のユグドラシルから] ×
 主題の閉塞感・猜疑心などは良く書けてると思います。 ただ、「ムラ社会」という言葉に頼りすぎていて、主人公が具体的に村の何処に嫌気... ... 続きを読む

受信: 20:09, Wednesday, Dec 09, 2009

» 【+3】シュレーディンガーの蚊帳 [もけもけ もののけから] ×
なるほど。そういうことですか。面白かったと思います。結構な力をお持ちの方だと思います。それを踏まえた上で言います。もう少し、�... ... 続きを読む

受信: 23:15, Wednesday, Dec 09, 2009

» 【+1】シュレーディンガーの蚊帳 [峠の塩入玄米茶屋/2009から] ×
内容はかなり好み。出だしの文体も硬質で、期待しながら読み進めたのだが、里奈と並木のさながら夫婦漫才の如きやりとりに膝が砕けた。並木が「ムラ社会」の持つ集団的陰湿さを語り出した時、そのまま伏線を暗示させる方向に持っていくかと思いきや、里奈がじゃれて来て .. ... 続きを読む

受信: 00:48, Thursday, Dec 24, 2009

■講評

言葉の重複が最初にあって、惜しいです。
後は、村人達が「何故、本家の味方をするのか?」
は書き込まないと都会暮らしの方には分からないと思います。
せっかく並木くんを出したのですから、
「何でも知っていて、縦のつながりが深い」だけで終わらせず、
「○○家の親父さんには随分世話になったクセに、
裏切り者め!」と言われたら生きていけない田舎の閉じたコミュニティをもっと説明してあったら、この話はもっと重苦しい物になったと思います。

とは言え長文を書く腕と、主人公の持つ漠然とした閉塞感は文中ずっと存在していて、
読ませてくれたと思います。

文章 1 閉塞感 1

名前: ほおづき ¦ 10:56, Wednesday, Dec 09, 2009 ×


院生の面々が実に生き生きと描かれ、魅力的でよかったです。その明るさが村や洋子や貴理恵の陰気さと対比され、面白かった。主人公は誰と接しているかでカラーが変わる印象がありましたね。
ラスト近くの里奈のセリフがドカンときました。こういうキャラクターの描き方は好みです。

*文章+1 *キャラクター+1



名前: げんき ¦ 00:02, Sunday, Dec 13, 2009 ×


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