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シュレーディンガーの蚊帳-2
 終電で帰り着いた頃には、村は一層闇に覆われ、点々と続く街路灯が儚く見える。
 空はどんよりと曇っており、月明かりを完全に遮断していた。
 こういう日のためにと、鞄の中には洋子から渡された懐中電灯が入っているが、とてもそれを使う気にはなれなかった。
 光源は虫を寄せ付けるからだ。
 街路灯の前を通ると耳障りな羽音と小さな衝突音が聞こえてくる。私はその正体を見ないように、街路灯と距離を置きながら家路を進む。
 こういう時に清涼スーツがあって良かったと本当に思う。白いワイシャツを露出していると、よく解らない種類の小虫が何匹も貼り付いたり、街路灯に群がっている蛾やカナブンが寄ってきたりするからだ。
 ――たかが虫じゃないですか。
 洋子の言うとおりだ。
 ――あなただって、小さい頃は平気だったのではありませんか?
 それも当たっている。今はすっかりアスファルトで埋め尽くされて淀んでしまった小川で、何匹もザリガニを捕まえ、山ではカブトムシ、クワガタ、トンボ、アリジゴク、ヤゴなど、様々な虫を捕まえて掌や頭の上に乗せて友人達に見せびらかしたりもした。
 それがいつの間に苦手になってしまったのだろうか。
 小さい頃と今とで、虫に対する何らかの価値観が変わってしまったのだろうか。
 虫は生きている。それは小さい頃からよく解っていた。死ねば動かなくなるし、ちょっとの力加減でバッタは緑色の体液を吐き出しながら潰れ、トンボの首はもげる。放置しておけば水槽の中のザリガニは共食いの果てに腐り、カブトムシはその外殻だけを残して干からびてしまう。それらの状況を見たときは驚きはしたが、だからといってそれから虫が触れなくなったという訳ではなかったはずだ。
 祖父母の教えだったか、手塚治虫の漫画が先だったか、輪廻転生について知ったのもその頃だ。命は繰り返す。しかし人間がずっと人間として生まれ変わるとは限らない。虫達はかつての誰かだったかも知れないし、未来の自分の姿かも知れない。確かそんな話だ。
 だがそれを真に受けていたかというと違う。面白い話だとは思ったが、私にとっては虫は虫であり、その前世も未来も関係なかった。
 では、虫の何に私は嫌なものを感じるのだろう。
 それは、『生きている』という意味合いの違いではないかと思う。
 小さい頃は、生きているから動き食べる、死ぬから動かず腐る。そのくらいの違いにしか捉えていなかった。
 しかし今は違う。様々な人と出会い、いろんな考え方に接して、生きていると言うことがただ活動している以外の意味合いを持つことを、私は学んだ。
 それぞれに生活があり感情がある。その生命に繋がる他の生命があり、その連鎖が世界を構成している。
 虫も恐らくそうなのだろう。だが、虫の行動原理も感情もわからないし、それがあるかどうかすらわからない。わからないものは存在しないのと何の代わりもない。ならば何故虫は生きているのか。
 恐らく私は、虫という生命がわからないから怖いのだ。
 それは死骸についても同様で、わからないものがおぞましい屍を晒していること、それに触れることが嫌なのだ。
 ならば、人間はどうなのか。
 本質では同じなのだろう。家族・友人・仕事仲間の全てを知っている人間などいるはずもない。全てを知っていると豪語する者がいたならば、それは愚かな幸せ者だ。
 しかし、全てを知らないと言うことはない。接点がある限り、その僅かな接点だけでもその人物を知ることが出来る。その一部を頼りに全体像を構築し、その人間を知ったつもりになっているのだ。
 そうやって我々は生きている。そうしないと関係が成立しないからだ。
 私と洋子の場合もそうだ。
 私は洋子の全てを知っているわけではない。そして洋子も私の全てを知っているわけではない。だからこそ成立しているとも言えるし、だからこそ不安を覚えるのではないかとも言える。
 そしてそんな不安を、誰かに相談する事など出来るわけがない。
 だから、自分の考えていることが普通なのかどうかがわからず、余計に不安に陥るのだ。
 勿論、普通などという言葉がまやかしだと言うことはわかっている。だが、不安を抱える者にとってその言葉は一種の宗教のように甘い響きを持って我々を魅了する。
 そう思うと、結局自分の弱さやいい加減さ、自分でも整理のつかない様々な感情が渦巻いている、自分というものが一番怖いのかも知れない。
 そんな自分を晒し、誰かにそれを指摘されることが怖いのかも知れない。
 自分も虫のように訳のわからない存在で、死んでみれば理性という外殻を纏っただけのからっぽの存在なのかも知れない。
 結局は同族嫌悪なのだろうか。
 そこまで考えて、私は長いこと自宅の前に佇み続けていたことに改めて気づく。
 ……馬鹿馬鹿しい。単なる言葉遊びだ。
 私はかぶりを振った。その時、視界の隅に奇妙な物が目に留まった。
 右の通りに点々と街路灯が並ぶ。
 その最も近い街路灯の下に、老婆が佇んでいた。
 老婆はまとわりつく虫を払いのけようともせず、私を、そしてこの家を睨んでいる。
 ……またか。
 私は老婆から目を背けて家の中へ入り、引き戸の鍵を閉めた。

 最初にあの老婆の姿を見たのは、大学に入ったばかりの頃だった。
 教授は生徒や院生を何人も呼んで、夜通し宴会騒ぎをするのが大好きだった。
 私他数名の新入生も一度講義を受けただけで、いつの間にか招待メンバーにカウントされていた。
 御茶ノ水から三時間という距離、そして教授の家の大きさにも驚いたが、我々が一番驚いたのはあの老婆の存在だった。
 老婆はあの夜も街路灯の下に佇み、教授と家をじっと睨み続けていた。その姿は嫌でも目立ち、私達新入生はひそひそと老婆のことを話した。それに気づいた教授は私達に釘を刺した。
「気にするな」
 そう言われては逆らうことも出来ない。私達は老婆の正体や意図について教授に聞くことも出来ず、その話題に触れないようにしながら宴席を盛り上げ、だだっ広い客間で雑魚寝した。
 翌朝帰る頃には、あの老婆の姿はなかった。
 それから度々老婆の姿を見かけることがあったが、私達は「気にするな」をいう教授の教えを厳守した。
 老婆の素性を知ったのは、義父の通夜の時だった。
 町の名士だけあって弔問客は途切れることがなく続き、一段落したのは午前零時を廻ってからの事だった。
 もてなしの食事も身洗い酒も尽き、弔問客が帰るのを玄関先で見送ると、私はほっと胸を撫で下ろした。その時、去っていく弔問客が足を止めた。
「まだいるのか婆! 去ね!」
 見ると、街路灯の下にあの老婆が立っていた。
「胸糞悪い。なんぞ本家の大旦那に恨みでもあんのか!」
「恩知らずが!」
「おめぇの望み通り大旦那は去んだ! それでもまだ足らんか!」
 弔問客が老婆を取り囲み、口々に罵倒をはじめた。
「大旦那の情けを仇で返した馬鹿娘の面倒も見んと、今度は逆恨みか!」
 その言葉に私はようやく気づいた。
 あの老婆が真理恵の母親だという事を。
 老婆は彼らの暴言を無視して、ひたすらこの家を睨んでいた。
 その時、洋子が私の袖を引いた。
「戻りましょう。これから寝ずの番をしなければなりません」
 旧式の作法に乗っ取り、線香を絶やさないようにする番のことを言っているのだろう。
 私は老婆に目を背けて洋子とともに屋内に戻った。
 翌朝にも老婆はそこに佇んでいた。
 それからも時折、老婆はそこに佇み、同じ姿勢でこの家を睨んでいた。

 奥多摩の河川沿いにある発掘現場では、既に他校や民間の研究者達が発掘を始めていた。
「晴れて良かったですね」
 里奈は嬉しそうにそう言うと、ぱんぱんに膨らんだナップザックを下ろした。
 中は恐らくいくつかの採掘・検証道具と資料、そしてその十倍以上の食料だろう。
 出発前に、おやつは五百円までだぞと、他の院生にからかわれていたのを思い出す。
「それにしても奥さん、残念でしたね」
「あ、ああ」
 私は言葉を濁した。
 院生達には都合が悪くて来れないと伝えたが、私は洋子を誘ってすらいなかった。
 発掘に携わるのは主に考古学を専攻している人達で、彼らはより古く珍しい物を求めているが、私達は彼らが余り興味を示さないようなありふれた発掘品二着目視、それらの存在から郷土史の隙間を埋めることを目的としている。
「郷土史と考古学っていとこみたいなものですかね」
 そう呟いた院生のひとりに、まだカチカチに凍った保冷剤が投げつけられた。
「考古学部郷土史科でしょうが。自分の所属してる学部学科も忘れたの?」
 里奈が容赦ない言葉を浴びせたが、言い終えてから考え込むような仕草をした。
「……でもまあ、カテゴライズなんてたいした意味はないわよね。うん。郷土史科は考古学も考現学もやって、民俗学や近代史もやる。考古学だって闇雲に最古の歴史を発見するだけじゃないし、既に発見されたものを再検証したりして、その辺は郷土史科と変わりはないか……ごめん、チョコあげるから許して」
 里奈はひとりで納得すると、保冷剤の直撃を受けた院生に板チョコを差し出した。どうやら保冷剤はチョコが溶けるのを防ぐためのものだったらしい。
「何処でどう繋がっているかわからないって点では、学問も人間も似たようなものよね。家系図を辿れば、ここにいる人全員が遠い親戚だって事もあり得るし、神話が本当なら人間はみんなアダムとイヴの、あるいは伊弉諾尊と伊弉冉尊の子孫ってことだし……」
 そこまで言うと、彼女はにんまりと笑みを浮かべて私の方を見た。
「だとしたら、実は先生が私の生き別れた兄だった、なんて事もあり得ますよね?」
 彼女以外の院生が一斉に『ないない』と首を横に振る。
「お兄ちゃん! かわいい妹に単位と学位をくださいな」
「……里奈ぁ、何か悪いものでも食べたのか?」
 遅れて合流してきた並木が絶妙のタイミングでツッコミを入れた。その顔面にいくつもの保冷剤が叩きつけられ、彼は背負っていたバーベキューセットもろとも崩れ落ちた。
「人にこんな重いものを押しつけておいて、この仕打ちはないだろ?」
「そんな大きいもの、私が運べるわけないじゃない」
 里奈があのセットを背負ったら、背負った瞬間にぷちっと潰れるだろう。他の院生達も『うんうん』と首を縦に振る。
「だいたい、ここで活躍しないでどこであんたの見せ場が来ると思ってるの!」
「こんな見せ場いらないって」
「見せ場は要らなくてもそのセットはいるの。あんた、とっととセッティングして!」
「俺はお前の亭主か!」
 そう叫んだ並木の腹部に、里奈の渾身の固形燃料ストレートがめり込む。
「あんたね、結婚ってのは他人と他人が一緒になるっていうとんでもない事なのよ! それにどれだけの覚悟がいると思ってるの! 望むならその覚悟に見合うものを見せなさい!」
 思わぬ言葉に、院生達だけでなく他の発掘者達からも惜しみない拍手が送られる。
「でも、あんたがいくら頑張っても、わたしにその気はまーったくないから」
 里奈のとどめの一言で、拍手がぴたりと止んだ。
「ね、先生。先生もマスオさんになるのに、かなりの覚悟があったんじゃないですか?」
「ど、どうだったかな……」
 私は返事に困った。覚悟があったような、なかったような、
 私が次男坊だったせいか、両親から婿入りを反対されることもなく、何かが引っかかったまま流されて結婚したというわけでもない。
 照れ笑いを装ってごまかしつつ視線を逸らす。
 その視線の先では、並木がぶつぶついいながらバーベキューセットを組み立てていた。

 奥多摩での発掘作業とフィールディングは十日ほどで終わった。
 日の明るい内に村へと帰るのは久しぶりで、長いこと離れていた所為もあってか、まるでよその土地のように見えた。
 ちっぽけな商店の店先では、店の奥さんと二人のおばさんが楽しげに談笑している。
 立派なダルメシアンを二匹引き連れた女性が、颯爽と歩き去ってゆく。
 郵便配達のバイクが走っては止まり、ポストに郵便物を入れては走ってという、気の遠くなるような道のりをこなしてゆく。
 それらの人々と挨拶を交わしながら歩いていると、見慣れた――しかし住み慣れたわけではない我が家へと辿り着く。
 寝室に入ると当たり前のように蚊帳が引き上げられていて、その広々と片付いた畳の上を洋子が竹箒で掃除しているところだった。
「あら、おかえりなさい。早くなるなら連絡くだされば良かったのに」
 割烹着姿の洋子は苦笑していた。
「いや、驚かせようと思って……。だけど驚いたな。蚊帳を畳むだけでこんなに広く感じるとは……」
 寝室は八畳の和室で、室内に置かれている家財道具は鏡台と洋服箪笥だけだ。布団を片付けてしまえば広いのは当たり前なのだが、蚊帳ひとつでここまで印象が変わるとは思わなかった。
「孝一さんが慣れてないだけですよ。わたしは物心ついた頃から蚊帳の中でしたから」
「蚊帳の外ならぬ蚊帳の内か」
 その響きが妙におかしくて、つい笑ってしまう。
「そんなにおかしいですか?」
 そう言いながら洋子も笑った。
 洋子は生まれつきの箱入り娘、いや、蚊帳入り娘だった。
 その裏表のない、危うげな素直さが愛おしかった。
 私は彼女を抱きしめた。
「きゃっ」
 彼女は戸惑いながらも、その身を私に委ねた。

 土日をまたいだ週明けの研究室は、先週の発掘・調査結果に関する議論で大いに盛り上がった。これまで場を纏めてきた里奈ですら我を忘れて持論を展開し、それを諫めようとした並木にレポート用紙の雨を降らせるほどだった。
 結局議論はまとまらず、翌日に持ち越すことにしてその日は解散となった。院生の何人かは飲み会と称した延長戦を申し出たが、私はそれを辞退した。
 楽器店通りの喧しいロックミュージックと下手な試演、そして学生とスーツ族が奏でる喧噪のハーモニーは、駅前で更にそのボルテージを上げる。狭いホームには制服姿の小学生から老人まで、様々な年齢層がひしめき合い、電車の到着を待っていた。
 そのハーモニーを聞きながら、私は手早く二通のメールを送信し、携帯の電源を落とした。
 東京駅へ到着すると呆れるほど長いエスカレーターを下り、丸の内南口改札を抜けた。外は既に暗くなっており、解体が終わりつつある東京中央郵便局の旧庁舎を、よりもの悲しく演出していた。
 私は地下道入り口の壁にもたれながら、役目を終えつつある旧庁舎と賑わいを増す丸ビル・新丸ビルの三つのシルエットを見比べていた。
「黄昏れてるね」
「あ、ああ」
 真理恵の声に振り返った私の頬に、彼女が差し出していた指先がめり込む。
「鈍いわねー」
 彼女は楽しそうにけらけらと笑いながら、指先をぐりぐりとねじる。
「痛いな、つけ爪が刺さるだろ」
「つけ爪だって。ネイルよネイル。ほんっとオヤジくさいわね。年齢詐称してるんじゃないの?」
「免許証でも見せれば納得するか?」
 ぶっきらぼうに答えたが、私はこんなやりとりが嫌いではなかった。女もそれをよく知っているからこそ、こうして私をからかうのだろう。
「その免許証があれば堂々と飲めるわね。お腹もすいたし、早く行こうよ」
 真理恵は私の腕を掴むとその肩にもたれた。
 強めの香水の香りとメンソールの残り香が、ふわりと私を包み込んだ。

 丸の内で食事を終えると駅の地下通りを抜け、雑居ビルの建ち並ぶ八重洲へと出た。
 同じ東京でも丸の内側と八重洲側ではまるで風景が違う。行き交う人々の層も、ショップのジャンルも大幅に異なる。それは日本橋に近いほど顕著で、この近辺が昔からの密会場所として多くの人々が利用し続けている証だった。
 私と真理恵が逢瀬を重ねているのも、そんな場所のひとつだ。
 通い慣れたホテルの一室で、私はいつも通りに彼女より先にシャワーを浴びようとした。
「……ちょっと、待ってくれる?」
 ベッドに腰掛けた真理恵がぽつりと呟いた。その顔が曇っている。
 私は彼女の隣に座り、彼女が話し始めるのを待った。
 しかし、彼女は押し黙り、酷く思い悩んでいるようだった。
 やがてその瞳にうっすらと涙が浮かんだ。
「……今日で最後だから……」
 彼女は涙とともにその一言を絞り出した。
「何故だ?」
 動揺しながらも、私は彼女に尋ねた。
「……わたし、結局母親と同じだったみたい」
 街路灯の下で佇む老婆の姿が脳裏に浮かんだ。
「わたしね、妾腹なのよ」
 その一言で、老婆の行動の意味が全て理解できた。
 あれは娘が理不尽な扱いを受けたからではなく、自らの境遇を呪い、義父だけではなくあの家そのものに恨みをぶつけていたのか。
 それと同時に、ゼミでの彼女の行動にも納得がいった。
 あれは父親への腹いせだったのだ。全ては義父の名声に傷を付けるためだけに行われた復讐だったのか。
 そして今まで私と関係を続けてきたのも、異母姉妹の洋子に対する復讐だったのか。
「バカみたい。全て忘れて、あんな村のことなんか捨ててしまえば良かったのに」
 彼女は嗚咽を漏らした。
 彼女とあの老婆、復讐に囚われ続ける二人の姿が重なる。
「でも、もうやめる。この子には同じ思いをさせたくないから……」
 微笑みながら、彼女は自らの腹部を撫でた。
「それは……」
「誰の子だろうね。わたしもわからないんだ」
 動揺を隠せない私を気遣ってか、彼女はわざと明るく言った。
 誰の子かわからない。それは私の子かもしれないという事も意味する。
 避妊はしていただろうか。あまりよく思い出せない。
「心配しないで。この子は誰の子でもない、わたしだけの子だから。この子と一緒にふたりで生きていくから」
 真理恵は涙を拭いて微笑んだ。
 私は何も言えず、ただその姿に目を奪われていた。
 私が彼女に惹かれたのは、その内面に溢れる強さだったのだろう。
 その強さが母性という器を得て、更に輝いて見えた。
「……そんなに見ないでよ」
「わ、悪い」
「ちゃんと宣言したかっただけだから、今日は何もナシ、これで先生ともおしまい。じゃあね」
 彼女はそそくさと立ち上がり部屋を出て行く。私はその背中を黙って見送るしかなかった。
 彼女の後ろ姿が扉の向こうへ消えかけたとき、急にその姿が扉の向こうへ倒れ込んだ。
「真理恵っ!」
 慌てて駆けつけると、彼女は廊下に俯せに倒れていた。
「おい、どうした? しっかりしろ!」
 声を掛けながら彼女を起こそうとした瞬間、後頭部に激痛が走った。
 ぼやける視界に黒い人影が見えたが、すぐに意識とともに闇の中へ消えた。

 小さな話し声に意識を取り戻すと同時に、後頭部がじんじんと痛み出した。
 目の前には星空が広がっている。
 自分が仰向けに倒れた状態にあると気づき、身体を起こそうとした。
 しかし、身体がまるで動かない。指先や足先は動かせるが、手足と胴体、そして首回りが何かによって固定されているらしい。
 倒れているのではなく、貼り付けにされて寝かされている。
 叫ぼうとしたが、口はテープのようなもので塞がれていた。
「お、気づいた」
 闇から声がした。
 目を懲らすと、黒ずくめの服に黒い目出し帽を被った人影が何人も、私の周囲を取り囲んでいた。
「若旦那、ありゃあいけねぇ」
 先程とは別の声がしたが、どの人影のものかはわからない。
「遊びなら構わねぇが、ガキはいけねぇ」
「弁えて貰わにゃな。入り婿でも本家は本家だ」
「なぁ、こいつ殺していいだろ? 生きとっても嬢さん泣かせるだけじゃ」
 口々に言葉が飛び交う。
「……それはなんねぇ。若旦那、運が良かったな」
 どういう意味だ?
 それに、真理恵はどうした?
 周囲を見渡したが、それらしい姿は何処にもなかった。
「あの娘のことは忘れんだな」
 その時、地面が少し揺れた。
「命は取らねぇ。だが……足は貰っておく」
 黒い影が次々と私から離れてゆく。
「次はねぇぞ」
 最後の人影がそう言い残し、視界から消えた。
 地面の震動は徐々に強くなっていく。それに合わせて、遠方から小さな光が近づいてきた。
 ……列車だ!
 足元を見ると、右足が線路の上に固定されている。
 どうにかできないかと足掻いた。藻掻いた。暴れた。
 しかし、右足をそこから外すことが出来ない。
 その間にも、徐々に光が近づいてくる。
(……足は貰っておく)
 嫌な言葉が何度も頭の中で繰り返される。
 近づく光が涙で霞み、下半身は漏らした糞尿にじんわりと浸食されてゆく。
 光の向こうに黒光りした列車の正面が見えた。
 次の瞬間、ごずっという鈍い音とともに落雷のような激痛が全身を駆け巡り、私のブレーカーは落ちた。

 意識を取り戻した時、まず目に飛び込んできたのは白い天井で、その先に白い紐がぶら下がっていた。紐の先を辿るとそれは私の右足の脛へと続いており、どうやら私の右足を持ち上げているらしいことが理解できた。
 その右足の足首から先は、やはりなくなっていた。
 傍らを見ると、泣き腫らした顔の洋子が眠っていた。
 どうやらここが病院で、自分が大変な状態だったということはわかった。
 だが、実感が伴わなかった。

 往診に訪れた主治医の話では、泥酔して線路の上で熟睡し、一歩間違えれば列車に轢き殺されていたところを運良く右足先だけで済んだらしい、との事だった。
 現場に通りかかった人達が止血などの応急手当と救急車の手配を行ったお陰で、失血死もせず助かったのだという。私を助けたという人達は当たり前のことをしただけだと言い、名乗らずに去ったそうだ。
 それが事故だと言うことは、その時間の列車の運転手が「石を跳ね上げたかと思った」と証言したことと、列車の車輪に付着していた血痕から証明され、鉄道会社から治療費と賠償金は言い値で出すとまで言われた。
 私はそれにろくな対応が出来ず、保険会社の担当者がそれら事務手続きとアタッチメント式簡易義足の手配やリハビリのスケジュールを固めてくれた。
 切断面は綺麗に縫合されたらしいのだが、内出血で右足は二倍以上に膨れあがり、何度か血抜きをして貰う羽目になった。
 さらに、ないはずの足先が酷く痒くなり、その痒みは何度も安眠を妨げた。
 その間も洋子はずっと付きっきりで私の世話をしてくれた。

 私が意識を取り戻してから、いろんな人が入れ替わり立ち替わり、見舞いに訪れた。
 私のゼミはとりあえず助教授が留守を守ることとなったが、実際は里奈が全て取り仕切ってくれるだろう。
 その里奈も他の院生達とともに何度も訪れた。
「ギブスなら落書きできるのに、包帯じゃ味気ないですね」
「お前、その言い方はないだろ?」
 並木のツッコミも、それに対する里奈の反撃も相変わらずだった。
「先生、これ、お土産」
 そう言って里奈が取り出したのは有名なケーキ屋の箱だった。
「何だと思います?」
「ショートケーキか?」
 私が無難な答えをすると里奈はにんまりと笑顔を見せ、テーブルの上でその箱を開いた。
 その中身を見て、私と並木は言葉を失った。
 そこには十個ほどの大福餅が入っていたからだ。
「まんまとミスリーディングにひっかかりましたね、ホームズ君」
「いや、これは……」
「自分で詰めたのか?」
 並木の質問に里奈は大福餅で答えた。
「洋菓子屋が洋菓子だけとは限りませんよ。開けてみるまで箱の中身は購入者以外にはわかりません」
「それって、シュレーディンガーの猫っていうのと同じだな。猫がいるとかいないとか」
 専門外なので詳しくは知らないが、確か心理学的な話だったように記憶している。
「それは多くの人が勘違いしてるパターンです。実際は、猫とそれを殺せる装置をひとつの箱に入れるんです。その装置は一定の確率で作動するようにセットされているのですが、一時間後、果たして猫は生きているか、それとも死んでいるか、それが実験の概要です」
「猫じゃなくてネズミにしろよ、残酷だな」
「ネズミだって残酷でしょうが。で、この実験の目的はその生存率の統計を取ることではなく、箱を開けない限りその生死が確認されない、つまり、生きている状態と死んでいる状態という相反するものが重なり合った状態、つまりパラドックスを作り出すことなんです」
 生きているのか、死んでいるのか。
 私は真理恵のことを思い出した。
 ある程度回復してから携帯を確認すると、真理恵のデータだけが綺麗に消されていた。
 彼女が住んでいた場所も知らない。連絡の取りようもない。
 知っているとすればあの老婆だけだろうが、果たしてまともに話が出来るかどうか。
 今の私から見た真理恵の状態は、まさに箱の中の猫だ。
「勿論、開けてみれば結果ははっきりします。ですが、その結果によって喜ぶこともあれば悲しむこともあります。だったら箱は閉じたまま、中身を知らない方が幸せでいられると思いませんか?」
 いつになく冷静な口調で里奈が語る。
 私の顔をじっと見つめたまま。
「……足だけで済んで良かったですね」
 里奈が微笑む。
 その瞳に、怯えた男の情けない顔が映り込んだ。

「もう、秋なんですね」
 窓を閉めながら、洋子がぽつりと呟いた。
「そうだな」
 窓の外に広がる青空はいつの間にか色が薄くなり、ちぎれ雲が水色の海に浮かんでいる。
 パジャマもいつの間にか長袖になっていて、今まで寝ている間に振り払っていた掛け布団も、最近目覚めた時にはきちんとかかったままになっている。
「そろそろ冬支度をしないといけませんね」
「退院したら手伝うよ」
「すぐには無理です。本山のお婆様の葬儀が終わったら、叔父様にお願いしてみます」
「……え?」
 本山……真理恵の名字だ。
「昨晩亡くなられたんですって。何でも自殺だとか。真理恵さんも家を出たきりで他に身よりもいらっしゃらない方ですから、本家と分家の方で葬儀を行うことに決まったそうです」
 これで、真理恵の箱は永遠に閉ざされたままだ。
 それで……よかったのだろうか。
「孝一さん、どうなさったんですか?」
「あ、いや……」
「お辛いのはわかります」
 その言葉に、私は目を見開いた。
「普通の怪我ではないですから、今後も不自由することが多いと思います」
 怪我のことか。
「私が孝一さんの支えになります。ですから、この子のためにも元気になってください」
 そう言いながら、洋子は自分のお腹を撫でた。
(若旦那、運が良かったな)
 あの声が蘇る。
 それで私は生かされたのか。洋子と……子供のために。

「あの蚊帳も、叔父様に外して貰います。もう、虫も出ないでしょうから」

 洋子はいつも通りの屈託のない笑顔を見せた。
 だが、それは本当の顔なのか?
 今の言葉は、額面通りの意味だけなのか?
 ……洋子、お前は何処まで今回の事に関わっているんだ?
 いっそ、聞いてしまおうか。
(箱は閉じたまま、中身を知らない方が幸せでいられると思いませんか?)
 里奈の言葉が蘇る。
 その通りなのかも知れない。知らずにいれば、今まで通りの日常が続くに違いない。
 おいしい朝食、村で出会う人々、通勤電車の中、ゼミの院生達。
 たったひとつ違うのは、二人の女が表舞台から消えたと言うことだけだ。
 もし箱を開けたら、その微かな日常すら失うかも知れない。

 私はこの日常という退屈で狭苦しい蚊帳から出ることは出来ない。
 入っていれば、私は守られる。
 だが、もし出たら。
 窓の外を見つめる洋子の横顔は、その問いには答えてくれなかった。




-------------
【事務局注】
この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。
このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。
これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「シュレーディンガーの蚊帳-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。

なお、正式タイトルは「シュレーディンガーの蚊帳」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。

23:27, Tuesday, Dec 08, 2009 ¦ 固定リンク ¦ 携帯

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潜む実話怪談

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