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「先陣を切った姉はかく成りぬ。さてさて、かくも愉しき知恵比べ、次鋒はうぬである」 厳かに告げられる中、鏡コガネの牢籠からは、絶え間ない絶叫が迸り続けている。 その一部始終を見せつけられていた次女のふみほは、既に半狂乱に陥っていた。蟲たちによって姫の眼前に引き摺り出されても、とても虫合わせが出来る状態ではない。 「お゛ぉぉぉぢにがえじでええ゛ええええええええ゛ぇぇぇぇぇぇっっっ!!!」 びえびえと泣き止まぬ。宥め賺(すか)そうと枇杷(びわ)色の寝間着を這い昇ってくる毒虫の類に、更に怯え喚かされる悪循環。 「あだぢわる゛いごどじてっないもん゛ぅぅぅぅぅっっ!!」 ぽっちゃりとした凡庸な容姿の女の子である。歳はかごねの一つ下。常に姉の後ろに控えているか、妹を前に立たせるかしている気の弱い娘であった。しかし放っておけない愛嬌があり、困った顔をしていれば必ず誰かが手の差し延べてくれる、そんな娘でもある。 もっとも今は、狂人寸前の体たらく。瞳を泣き腫らし、垂らした鼻水を蝿取り紙にして、イヤイヤをした拍子にふくよかな頬にも貼り付けている。ボブカットの毛先に止まった髪切り虫を振り落とそうと、必死の形相で腕と髪を振り回していた。 「どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぢでぇぇぇぇぇぇぁあああああああああああっっ!!」 ふみほは、自分は何も悪くないと思っていた。ただかごねの思いつきを手伝っただけだ。だからこんな酷い扱いを受ける謂われはないのだと。 こういう理不尽な扱いを受けた時は、泣かなければならない。こうすればいつも、姉や妹や皆は言うことを聞いてくれた。だから力の限り泣き喚き、手足を振り続けるのだ。 故に彼女は気づけない。 背後で末妹が何かを訴えたげに懸命に身振りをしている事は勿論、糞尿を垂れ流して飛沫を相手の頬にかける段になって、次第に姫の目つきが険を帯びていく事にも。 畏き者の前で泣いてはいけない、駄々を捏ねてもならない。それは、神こその特権なのだから。 「これ。朕は些か飽いてきたぞ。きちんと虫合わせの相手をせぬか」 聞き分けぬ人身御供の絶叫を五月蠅そうに聞き流し、祟神の瞳が細められた。 声が一段、低くなる。 「むしびやああああああ!! むしぃひぃぃいいっ、どっかやっでぅええええええっっ!!」 「逃げ惑う蟋蟀は自分で追うておいて、ようも言う。では何故、その嫌いな虫を妹に食させようとした?」 最早不機嫌さを隠そうともせぬ声色。だがふみほの混乱した意識には、言葉をかけて貰えることこそが、相手に関心を持って貰えているという手応えに感じられてしまう。後一歩だ。もう少しでお願い事を聞いて貰える。そんな在りもしない希望に縋って破滅の坂を転がり落ちていく。姫の痺れが切れるまで、後数秒……。 「わ゛るぐないもん゛んんんん!! がえ゛じでっがえ゛じでっっがえ゛ぇぇェエエエじでぇぇぇぇぇぇっっっ!!!」 臀部を盛り上げていた大便がいつしか脹ら脛に垂れていて、塊が、脚を振り上げた拍子に寝間着の裾から天之産蟲姫の召し物の膝元へと飛んだ。白銀の瞳が一瞬にして真紅へと染まる。見開かれた禍つ神の壺皿が、ついに攻撃色を灯らせる。 「あだぢがいいだじだんだゃない゛もん゛んんんん!!」 「黙りやれ! 分別弁えぬ下郎がっ!! 最近の童はほんに悪びれぬ、畏れ敬いはせずに益だけを強請ってくるか!!!」 「ぶべっっ!?」 一喝と共に顎を下から激しく打擲されて、ふみほは醜い呻き声をあげた。よく見れば、それは奇怪な昆虫の羽である。姫の十二単が一番下の一枚だけを残して、幾条も縦に亀裂を入れていた。次々と裂けて頭上に跳ね上がり、美麗な翅の数々と化していく。その際に、幼な児の顎を強く叩いたのだ。それらは、姫の細い首を取り囲み、根元を鎖骨やうなじと癒着させて羽衣の輪を作る。一斉に振動を始め、辺りを怒りの重低音で包んでいく。近くにあった岩が、煽りを食って砕け散り、さらさらの砂礫へと崩壊させられていった。 さらに――、 「ぎゃひぃぃぃぃぃぃいぃぃッ?!」 産蟲姫の耳の上から自分の顔ほどもある巨大な複眼に見下ろされているのに気づき、ふみほは奇怪な叫び声と共に泡を噴いた。件の両側頭部の渦巻き髪、蝸牛の甲羅髪が擬態を解いて、注連縄状の瘤と盛り上がりを持った複眼と化している。ギロリとふみほの姿を見据え、表面で幾人にも像を分裂させていた。 「そウじゃ、畏レよ! 平伏セヨ! サすれば願イを叶えテヤる気ニもナろウトイウモノ!!」 一瞬にして絢爛な衣を纏った得体の知れぬ人丈の昆虫神へと変貌を遂げた少女が、次第に人域から外れていく声で宣わる。痛烈な威嚇の気配が形を取り、尻房が三つ、針も三本持っている分化前の原始の毒蜂の群れとなった。 「ホレ、震エイ、歯ノ根ヲ打チ鳴ラセイ!!」 ひょいと袂に引っ込められた両の手と入れ替わりに、黒光りする昆虫の鋸脚が五本、ゾロリと生えてくる。あらゆる蟷螂の前脚よりも、如何なる鍬形の顎よりも、ギザギザと峻厳に角立ち研ぎ澄まされた。左の二本でふみほの頤を挟み込み、ぐいと自分に向けさせてくる。ふっくらとした皮膚が破かれ、血が滲んだ。 連環翅が一斉に羽ばたき、振動から産まれた無数のアブが彼女を刺し立てる。猛々しい姫の視線が触れた寝間着からは、蟻酸を吐いて鉄をも溶かす屈強な軍隊蟻が這い出して、じゅうじゅうと生地と肌を焼いてきた。 「あび……っ、はびゃ……っっ!!」 頭の蝶々結びが自ら解け、揉み上げから一本ずつ垂らされていた編み髪が感覚器としての役割を思い出し、ピンと触覚が立つ。 極めつけ。流麗な姫の鼻梁の頂点から十字に顔面が裂け、柘榴を割ったような口腔粘膜を晒す段になって、ふみほの意識は容易く狂気の境を飛び越えた。 「ぶぎゃあああひゃハああああらっっ!?」 ゲラゲラゲタゲタと哄笑あげる少女に向かって、喉の奥にぽっかりと空いた食道の昏い深淵から、線虫状の触手がうようよと先端を伸ばしてくる。 ――天之羽々蟲(あめのははむし)。古くは恙虫大納言と恐れられ、一説には元寇の折、高天原の命で神風を起こしたとも謳われる、精強の悪神。 「モウ良イ。頭ノ足リヌウヌ如キトデハ、知恵比ベナド出来マイゾ!! 望ミ通リ『かえして』クレルワ! サァ、コノ三枚ノ札ヨリ、ウヌノ命運ヲ選ビ取ルガヨイ!」 産儀の母蟲が、右脚に挟んだ三枚の短冊を、裏返しにして突き出してきた。 「ごわイ゛よ、ぎゃごネおじぇえじゃああああアアアっっっ!!」 泣き喚くふみほの唾が右端の札に飛び散った。 「コレデアルカ!」 くるんと表を見せられた短冊の文字は……『孵す』。 「ヨイヨイ、孵シテ進ゼヨウ!」 途端、ふみほの右指の爪から、肉の爆ぜる激痛が伝わってきた。豆粒じみた痘瘡がぼこぼこと広がり、甲、手首、前膊……、野球のグローブの如く、右腕を腫れ上がらせていく。 気泡のように次々と弾けては、蟋蟀に似た奇怪な虫を内側から跳ねさせる。 「デっでっでぇぇぇぇっっ!!? あ゛――ア゛――ア゛――ッッ!!!」 「次ハコレカ!」 その蟋蟀似の虫の一匹が、ぴょんと真ん中の札に跳んだ。 くるんと表を見せた短冊の文字は……『返す』。 「ヨイヨイ、土ニ返サレルノガ望ミカ!」 わっとふみほの左手に集ってきた毒蟲達が、幼く柔らかい肉に顎を突き立てた。御馳走を得る許しを得て、一心不乱に貪り始める。肉を消化し、喰らう傍から尻の穴より、糞土をころころと落としていくのだ。 「あいギャあああああアアアアアああああああああっっっ!!!」 眼球から鍬形虫をぶらさげて、次女は阿鼻叫喚の只中に落とされる。その頬に鋸足を突き刺して、内側からVの字に開いて膨らませると、産蟲姫。 「チキキチキチキチキッッッ!!! ウヌガ頭ニ味噌ヲ詰メテオルコトヲ証明スル最期ノ機会ゾ!! こむしト答エテミセイ、ウヌガ身ノ可愛サニ妹ヲ売ッテ見セイ――ッッ!!!」 一瞬、理性の飛んでいる筈のふみほの動きが止まった。首を横にぶんぶんと振る。 「噛゛んでヤ゛るうううううっっ、あたヂもお前だち゛をがんでやぶううううっっっ!!」 盲滅法に歯茎を打ち付ける次女の口が、最後に残った左端の短冊を噛んだ。 くるんと表を見せられた短冊の文字は……『帰す』。 「チキチキチキ稚気痴気地鬼! 良イトモ、良イトモッ、イトモ容易ク蟲ヘト変エテ、地上ヘ放ッテクレヨウゾ!! 伊邪那岐命ヨ、視テオルカ! ウヌノ罪デマタ一人、養イ子ガ虫ヘト身ヲ沈メルゾ!! 地表ニ帰リ、兄弟姉妹ヲ悩ミ悶エサセルデアロウゾナァ!!!」 忌まわしい宣告と同時に、パッとふみほの身体が弾けた。後には彼女から孵った虫の群れと、同量の虫の糞山が残るのみ。 「終ワッテミレバ、かごねノ時ヨリ楽シカッタノウ! 誉メテ遣ワス!」 讃辞を賜った場所では、ふみほから孵った歪な虫達が、狂ったように不規則に走り回っている。姿は蟋蟀に似ていた。出来損ないのボートのような、ずんぐりとした体付きだ。発達した後ろ足が二対四本ある。跳ねる能力は無いらしく、強い脚力で水平に地面を蹴って、細い二本の前足で辛うじて姿勢を維持しながら地べたを駆けずり回っていた。目は焼かれたように醜く塞がっている。何も見えないらしい。口では激しい切断力のありそうな顎が、農具の鍬を二本左右から打ち合わせて鳴らすかのような、身の毛のよだつ音を立てている。 「愚鈍ナ子供モ、コウスレバ愛イモノヨノウ?」 虫戯御前が節足の一本を差し出すと、「ェェェシテッ、ェェェシテッ!」と頬の両脇の袋を膨らませて人を不快にさせる声で鳴きながら、それらは群がって噛みついてきた。 「コノ蟲ハ『踏み穂虫』ト名付ケル」 天之羽々蟲がさっと節足を振る。すると小さな水田が創り出され、稲が実った。そして踏み穂虫たちが他の虫に追いやられて落とされた。すると彼女らは、地団駄を踏むようにバタ足で水田を泳ぎ回り、ぶつかった稲の根に手当たり次第に齧り付き倒しては、黄金色の稲穂を踏みつけにして別の場所へと進んでいく。 「斯様ノ如ク、秋ニ実ッタ稲ノ根ヲ囓リ、薙ギ倒ス虫トナッテ地上ヲ暴レヨウ!」 たちまち水田は、無惨に泥に塗れた瑞穂の残骸と、「ェェェシテッ、ェェェシテッ!」と盛んに鳴いて泳ぎ回る害虫の大合唱に埋め尽くされた。 「ホホ、盲イテオルコヤツラハ、ブツカル物全テヲ敵ダト思イ込ンデオル。ヤッツケテイルノガ食料ノ稲トハ悟レズ、踏ミツケニシナガラ餓エテ死ンデイクノジャ。勿体ナイ勿体ナイ、真ニ、ウヌラノ末路ニ相応シキ虫デアルコトヨナァ!」 応える者は悪虫のざわめきと末妹の啜り泣きのみ。 パッパと次女が姿を変えて、残りは末妹、只一人。
かくして場には、元凶の末妹と禍つ姫だけが残った。 「惨くモ愉シき知恵比ベ、古式ゆカしく三人目ノ出番でアる。うヌで正解へ辿り着クのがオ伽噺の常道デあるガ、ハテナ? 幼児ノ夢物語のヨうにハゆかせマイぞ!」 身体の右半分だけ少女の姿に戻り、昆垢洞の主が袂を口腔に当ててケラケラと嗤う。裂けた左顔面の奥、深い腔洞より笑声を響かせて。 柘榴の皮の如くべろりと剥けている、トの字に裂けた左の擬態皮膚。即ち半開きの顎が、軽く噛み合わされる。と同時に、鉤型に曲がった部位から表面の眼球を最後の回答者に向けて覗かせてきて、ニタリと瞼を歪めさせた。 末妹のこむしは、虫の群れに乗せられて姫の眼前に運ばれていく。 姉二人と違って栄養の足りていなさそうな、痩せているおかっぱ頭の少女だ。俯きがちで、瞳も額髪で隠れがち。衣裳は継ぎ接ぎの多い浅黄色の寝間着である。四年の教室でも、おどおどと隅に逃げ込んでいるような、万事控えめで自己主張に乏しい少女であった。 それでも今は――。 「――ァ……ッ! ……ィ…………ッ、ァ……――!!」 恐怖、怒り、綯い交ぜの感情が、種々雑多。 声を忘れた喉にすら、息の奏唱を呼び起こさせている。 「ふム、姉たチの最期ヲ見てモ掠レ声を出スのガ精一杯でアるカ。薄情であルな」 投げかけられる意地悪や皮肉にも反応できないほど、彼女は混乱していた。 何故こんなことになっているのか、分からない。だって自分は――。 「蟋蟀ヲ助けル為にワざト鍋を落とシたのニ……カのう?」 人の顔色を伺うことに慣れた伏し目がちの瞳が、心を読まれて、はっ、とする。そう、自分は途中で、煮られる蟋蟀たちが哀れになって、逃亡組を追っている姉たちに気づかれないよう、こっそりと鍋を押したのだ。 (――そもそも鍋に入れる前に姉たちを止めなかったのがいけなかったのですか? それとも、煮て死んでしまった蟋蟀たちをきちんと食べなかったのがいけなかったのですか? だとしたら謝ります、お詫び申し上げますっ、二度とこんな悪い真似はいたしません! ごめんなさいっ、お許し下さい!! だから、どうか姫様、姉たちを元に戻して下さい! わたしたちを家へとお返し下さい!) 声の出せない彼女には、筆談用具の無い此処ではただ祈ることしかできない。毒汁滴る虫の群れに肘膝を突いて土下座する。しかし、その必死の懇願を姫は一笑に伏してきた。 「地上ニ出たいノう……」 きちんと正座している姫の衣の下が、どういう状態になっているかは分からない。その内側でズリッと粉挽き臼を回したような鈍い音がしたかと思うと、甘えるように十二単の矮躯がこむしにすり寄ってくる。半異形の姿のまま、ガタガタ震え始めたこむしを抱き竦めてくる。 「ウヌの如キかよワい童の胸一ツでも生死の定マる朕の末裔らハ可哀想じゃロウ? 心配じゃァ、母は心ガ痛ム。オオ、地表を自由ニ歩き回ッて孫ラを抱き包ンであゲタいのウ……」 猫にでもするかのように、指で頤を下から擽られた。 「アブと答えテたもレ。さすレば人身御供が送ラれノうなっテ、呪わシキ古ノ約定は消エ去る故ニ。然ラば姉共を元ニ戻しテ、うヌら三人とモ生かシてヤろウゾ?」 しかしこむしは、首を縦には振れなかった。 「何故ジャ。現世に姉ラ以外でウぬに良クしてくレた者でモおっタかえ」 居なかった。声を出せない自分は、どこに行っても爪弾き者だった。 だけど、脳裏に小さな断片が浮かぶのだ。 叔父叔母に虐められて泣いていると、「邪魔だ邪魔だ」と口汚く追い払いながらも飴玉をくれて慰めてくれる近所のおばさん、意地悪だけど時々優しいクラスの男の子たち。 長女のかごねが最期に見せられた世界のことを思い返せば、姫の要求を呑んだ後に彼らがどうなるか、容易に想像がついてしまう。そんな選択をするには、少女の心は優しすぎた。 (皆……、本当は、優しいの……です。わたしが……皆みたい、に、声を出せない、から、苛つかせてしまうだけ……。変な所……おかしい所を直していけば、少し、ずつ心の明るくて優しい部分を。わたしに向けてくれるようになる……のです) 自分に言い聞かせるような年端もいかない少女の思念に、姫がふんと鼻を鳴らす。 「酷イ妹じゃノう。『アブ』ト一言答えタならバ、姉二人ともドも無事に帰シてやロうとイうのニ。そんナに己ガ身一つデ助カりたイのカエ?」 聞こえないようにこむしはぶんぶんと首を振る。誘いに乗らないのは正しい選択の筈だ。だって人間を守ることが出来るのだから……。 それに――、人間の持つ本能的な恐怖が、姫の意のままになることを拒絶している。 『ごむ゛じなんぎゃじょうでもい゛っがら゛わ゛だじを助゛げでぇぇぇぇっっっ!!!』 絶えず聞こえる、豹変してしまった姉の呪詛。あれほど庇ってくれた自分を要らないと叫び続ける姉の声音が、胸に寸鉄を刺してくる。 姫に行く末を委ねていたら、姉妹の関係も何もかも、全てが変わって行ってしまうような恐怖があった。一緒に帰れたとして、これまでのように仲の良い姉妹として暮らしていけるのであろうか? どうせ自分なんて、鼻つまみ者。意地を張って無理に守ろうとしたから、かごね姉もふみほ姉も酷い目にあったのだ。もし全員が助かっても、これからは姉たちも態度を変えて、役立たずの末妹を虐めるようになるに違いない。 そんないじけ虫が鎌首を擡げてくるのすら、止められない。 掌を噛んでくる踏み穂虫を、胸に持ち上げてぎゅっと抱え、拾っていた姉の犬歯を、もう片方の手で握り締める。涙が零れた。今なら幸福なこれまでの思い出を胸に止めたままにしておける。耳を塞ぐ代わりに歯を食い縛った幼い少女の精神が、保身の殻に閉じ籠もってしまったとしても、一体誰が責められようか。 そんなこむしの思いを知ってか知らぬでか、姫が完全なヒトの形に戻った。 「ほう、蟋蟀たちはもう兄弟で鳴きかわすことも出来ぬに、うぬは姉妹愛よりも隣人への義理を取るのかえ。ほんにヒトは高尚に思考を進めよるのう!」 歯軋りに近い捨て台詞が吐かれ、こむしは、どんっ、と突き放される。 「さようか、さようか、では虫合わせじゃ。心を読んで進ぜる故、答えを思い浮かべい!」 (……人間が人間を無視する無視、……です) 懸命に知恵を絞った答え。 だがそれは――、 「姉もそう言えば良かったにのう。ほれ」 無惨に切り捨てられた。見せられたのは、ラ・フィン島の呪詛と呼ばれる空気感染する寄生虫病が猖獗を極めている世界だった。罹患者の軽い咳き込みでも広範囲に拡散する、絶対致死性のそれを巡り、人々が互いに監視の目を光らせている。 咳狩りなる物が横行し、飲物に噎せただけの人間でも、たちまち感染に怯える群衆に取り囲まれていた。そしてリンチで殺害されていく。 こむしにはことの重大さがよく飲み込めなかったが、問題が病気であれば、体力のない自分ら子供が酷い目に遭うだろうことは、よく理解できた。 「尋ねるまでも無いようじゃの、答え損じの一度目である」 無理だ、無理だ。姉妹で一番利発なかごねねぇが失敗したのだ。自分なんかの考えで上手く行くはずがない。 (……っ、答えは『ない』じゃ……?) 天啓。算数の式で0が答えだと教わった時の不思議な気分。解放感。 「ほう。人は虫がおっても、全く困らぬと?」 (はい。きっと今のままで、みんな仲良くなれる筈……です) 「良し。では、『人は虫がおっても、全く困らぬ』世界を魅せて進ぜよう」 次に見せられた世界では――、 「……おう、素晴らしい」産蟲姫が嘆息を吐く。 人間が虫の存在を受け入れて、共棲関係を結んでいた。ヒフダニや蛞蝓を体内に招き入れ、外敵を阻む動く住居となることで。彼らが馴染みやすいよう、肉体の構成すら変えて。 望んでそうなっている訳ではない。蟲界の仕掛けた催眠的な、狡猾かつ密やかな侵略の前に抗うことすら出来ずに屈し、疑問すら抱かぬまま昆虫の奴隷に成り下がった最初の哺乳類となっていたのだった。利用される道具と化した彼ら人間の科学力によって、地球全土の動植物が虫類に屈する日も近いだろう。 そこには、もう、人間と呼べる姿は全く無かった。 「ホホホッ、こむし。うぬも朕を体内に棲まわせてくれるのかえ? この世もこう変えるかえ?」 上機嫌にはしゃいでみせる姫の御前で、こむしは総身を震わせた。 ――嫌だ嫌だっ、あんな世界には帰りたくない! 「先程の解。うぬらに和平を結ぶ気があっても、虫の方に無ければの。自分達が一方的に握手を差し出せば、無条件に朕らがそれを握り返すと考えるなど、裸虫の傲慢よ。次は『人間と虫の諍いの無い世界』とでも答えてみるかえ? ムシという答えでは無くなろうが、構わんぞ。全く同じ世界を映すことになろうが」 こむしにもかごねと同じように、肩まで虫の群れが這い上がってきている。 「しくじりの二度目であるの。次が大詰めであるぞ!」 いよいよ、いよいよ、後がない。しかし既に心の打ち拉がれているこむしの顔は、みるみると色褪せた諦念に沈んでいく。付け込むように、禍つ神の甘言が弄される。 「ほれ、元気を出せい。何ならこやつらが解でも良いぞ」 ひょいと飫蓮御前の右の掌に乗せられたのは、踏み穂虫。 「この虫は生まれ立て。約束通り地上へと帰すが、その瞬間に消しても人の世は恙なく回ろうぞ」 こむしは黙して首を横に振った。 (わたしの――) 「ほう! 遂に己が身を差し出すか! 幼いながらに大した自己犠牲の精神じゃのう!」 蜻蛉の団扇を振って、産蟲姫が大仰に驚いてみせる。意のままにならぬ娘への憎々しさも忍ばせた、針の如き嘲弄。泣きそうになったこむしは、半ば自棄になって胸中で叫んだ。 (わたしのお腹の虫……!!) 思い出す。よく自分だけご飯を食べさせて貰えずに、姉たちが食事中にこっそり隠して持ってきてくれた夕飯の残りにありつくまでの、耐え難く怯えに満ちた時間を。腹の虫が鳴っては、叔父と叔母に五月蠅いと怒鳴られ続けるのだ。 これが失せる程度なら何ともない。寧ろ、有り難いくらいだった。 奇妙な沈黙が降りた。疲弊し切って感情の摩耗してきた少女と、う〜む、と呻って腕を組んだ幼神とが見つめ合う。呆れたとも、まだ何かを企んでいるともつかぬ密やかな笑みを浮かべた後、虫戯姫が手を叩いた。 「……天晴れ、降参である! うぬの腹が黙った所で、誰も困るまい。寧ろ幸せとなろう! 良かろうよ、解として認めようぞ!!」 (でしたら……早く、お帰し下さい……ふみほ姉の変じた虫と一緒に……) 鏡に映された世界は見なかった。どうなるか知らされてしまうのが怖かった。 とにかくここから逃げ出したい。虫にされてこの姫の慰み者にされてしまうのだけは絶対に嫌。たとえ外がどんな世界に変わり果てていようと。 (……でも待って) 光沢の薄れたこむしの瞳に、一瞬、潤いが戻った。怯え、驚愕という名の。 確か、姫に知恵比べで勝つと褒美があるのではなかったか。 地上から姫の系譜に連なる害虫を一種選んで絶滅させられる筈。 地上から、姫の系譜に連なる害虫を一種選んで、絶滅させねばならない筈。 ――この遊戯の後に、そんな恐ろしい選択を? ――やっと、おそらく不幸にならなくて済む解を見つけたばかりだというのに?! そこまで考えて「虫合わせ」を仕掛けてきたのだとしたら、悪辣すぎる。青ざめて顔を上げたこむしに向かい、してやったりとばかりに姫が頷いて見せてきた。 「よいよい、最後まで互いを売らなんだ、うぬらの姉妹愛に朕は心を打たれた。猶予を与える。絶滅させる害虫は、残りの生涯でゆるりと答えを出すがよい」 にこやかに笑いながら、しかし檻より抜け出せなかった無念さを滲ませた白銀色の目使いが、こむしが昆垢洞で見た最後の物だった。姫の口から這い出して、腐ったカメムシが、目や鼻を潰す悪臭を振りまいている。
【事務局注】 この作品は、送信された作品ファイルサイズが非常に大きく、1エントリ分で作品全てを表示することができないため、事務局側の判断で複数エントリに分割していますが、全て合わせて単独の一作品として応募を受け付けた作品です。 このため、先頭エントリ部分のみトラックバック/コメントを受け付けるとともに、先頭以外のエントリではトラックバック/コメントを受け付けないようになっています。 これはエントリーblogのCGIの仕様上の制限に基づく特別措置であり、「産蟲胤紀「虫合わせ」-XX」を全て合わせて1ファイルの単独作品であるとして、先頭エントリ部分にのみトラックバック/コメント講評を頂戴いただけますようお願いします。
なお、正式タイトルは「産蟲胤紀「虫合わせ」」で、XX部分の数字はエントリ分割に伴う、事務局による補足的なものです。
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17:24, Sunday, Dec 13, 2009 ¦ 固定リンク
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QRコードの中に 潜む実話怪談

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